『kocorono』/bloodthirsty butchers

『kocorono』/bloodthirsty butchers

bloodthirsty butchersのオルタナテ
ィブな傑作『kocorono』に詰め込んだ
型にはまらないロック

前回紹介したZARDの坂井泉水もそうだが、春は何故か有名アーティストの命日が多い。尾崎豊、Dragon Ashの馬場育三は4月、hide、忌野清志郎は5月に亡くなっている。bloodthirsty butchersの吉村秀樹も2013年5月27日、若くしてこの世を去った。bloodthirsty butchersは一般的な知名度では前述のアーティストに及ばないかもしれないが、『フジロックフェスティバル』の常連でもあり、多くの海外ミュージシャンからも共演を嘱望された彼らは、1990年代以降、日本を代表するロックバンドのひとつであったことは間違いない。決して忘れてはならない偉大なるバンドである。

ロックにおける独創性、創造性

さまざまなシーンで聞くことがある“オリジナリティー”という言葉。曰く、“創造性が大事”とか“独創性を発揮しよう”とか、そんな感じで使われている。音楽の世界においても、このオリジナリティーは重宝される傾向にあることは間違いないのだが、これがなかなか曲者元木だ。例えば、「真にオリジナリティーのあるロックはThe Beatlesだけ」とかいう話を聞いたことはないだろうか。ロックでやれることはほとんどThe Beatlesがやったとか、The Beatles以後のバンド、プロデューサーは自分のバンドをThe Beatlesに似せようとしていたとか。確かにThe Beatlesが世界の音楽シーン、世界のポップカルチャーシーンに与えた影響は計り知れないし、それは議論を待たない。だが、そのThe Beatlesが真のオリジナリティーある音楽だったかというと、それは微妙なところだ。何しろThe Beatlesのメンバー自身が1950年代のミュージシャン──Elvis Presley、Little Richard、Chuck Berryからの影響を公言している。「Roll over Beethoven」(『With the Beatles』収録)、「Rock and Roll Music」(『Beatles for Sale』収録)はChuck Berryのカバーだし、ロック以外にもThe Beatles はR&Bやソウルナンバーをカバーしている。よって、完全なるオリジナリティーはないし、そもそもElvis Presley、Little Richard、Chuck Berryらによる音楽=ロックロールにしてもR&B、ブルース、カントリー、ジャズからの派生とも言われているので、何がオリジナルかはかなり微妙だ。この話を突き詰めていくと、クラシックまで遡るが、モーツァルトが“私はオリジナルな曲など作ろうと努力したことなどこれっぽっちもない”と言ってるから、バロックやルネサンスまでいくのだろう。
結論を急げば、庵野秀明監督じゃないが、この世に完全なオリジナルなんてものは存在しないのである。つまり、皆に重宝される創造性、独創性の類いは過去のどこにもなかったものではなく、今まであったものの新たな使い方であったり、組み合わせ方であったりするのだろう。The Beatlesの偉大さはそういうことで、それまでプロデューサーと版権業者と音楽作家の連携──所謂ティンパンアレー方式で作られていた楽曲を、バンドが自作自演するというスタイルを後続に浸透させたこともそうだろう。バンドが自ら演奏する楽曲を自らで作ることで、それまでのロックンロールにはなかったサウンドが生まれたり、ジャケットデザインを含めて一貫したコンセプトを持ったアルバムも作られた。ロックロールを(あるいはR&B、ソウルも)咀嚼した上で、その演奏や録音を別の方法で試みた、というと語弊があるかもしれないが、そうとしか言いようがないと思う。
The Beatlesが提示した“オリジナリティー”は世界的に派生し続け、サイケ、ハードロック、プログレ、パンク、ニューウェイブ、ヘヴィメタルとつながっていく。日本においては、はっぴいえんど、シュガー・ベイブ、荒井由実、RCサクセション、大滝詠一らが欧米産のロック、ポップスに日本語を重ね合わせることに腐心し、それでも成立することを証明した。今日、ロックやポップスが日本の音楽シーンに当たり前のようにあるのは彼らの功績と言っても過言ではない。ロックはそうして世界でも日本でも一般層に浸透いったわけだが、大衆化は商業化とニアリーイコール。そこではコマーシャリズムを優先する音楽も生まれてきた。すると、今度はそれに異を唱えるというか、それとは一線を引こうとするアーティストが出現してくる。型にはまらず、普遍的なものを目指すアーティストたち。1980年代(1970年代後半という説もある)に彼らが鳴らした音楽がオルタナティブロックと呼ばれている。bloodthirsty butchers(以下、butchers)のサウンドが所謂オルタナであるかどうかは意見が分かれるところでもあるようだが、少なくともその精神性はかなり近かったことは間違いない。好きなロックを身体に浴び、体内に吸収した上で、型にはまらずに表現する。その意味において彼らがオルタナティブロックであったと言っていいだろう。『kocorono』を聴いて音楽史におけるロックの意味、あるいはロック史における1980~1990年代の位置付けを考えてしまった。かなり長文になってしまって申し訳ないが、butchersの音楽的背景、精神性、そこから創られた音楽をご理解いただく際の一助にはなろうかと思う。

独特の構成、展開とサウンド

『kocorono』はほんとすごいアルバムだ。いきなり私的な感想はどうかと思うが、これが偽らざるところだ。これと似たような作品はないと思う。いや、サウンドは、よく言われるようにDinosaur Jr.やSonic Youthといった、それこそ元祖オルタナバンドに近いラウド感があることは事実であろう。しかし、何しろ日本語でやっているのだから、全体的な聴き応えは異なるし、そもそも楽曲の構成、展開が全然違う。独特すぎる。M11「12月/December」はポップというか、分かりやすいタイプで、M3「4月/april」、M6「7月/july」、M9「10月/october」も、何と言うか、ちゃんとイントロがある(ような気がする)のだが、全体的にはイントロ~A~B~サビ~A~B~サビ~アウトロというように展開する楽曲がほぼない。そりゃあイントロやアウトロ、歌パートもあるにはあるのだが、定形とは違うというか、他とは明らかに異なる。M2「3月/march」でのアウトロのカットアウトはbutchersの特許ではないが、不自然なくらいに唐突に終わる。また、M6「7月/july」はイントロが長い。『kocorono』にはM4「5月/may」とM10「11月/November」というインストも収録されているので、何も知らない人が聴いたらM6「7月/july」はインストと思うのではないか──それほどに長い。全体的に、少なくとも初見では楽曲がどう展開していくか分からず、極めてスリリングである。音は元祖オルタナに近いとは言ったが、もちろん全部が全部そうではない。butchers独特の音も多い。ガレージのような場所で録音したのではないか(あるいはそういう処理か)と思われるM4「5月/may」が顕著だが、一見ラウド感が前面に出ているように思えて、単に勢いに任せているわけではないことは間違いない。サウンドへのこだわりは繊細なのだろう。M5「6月/june」やM8「9月/September」で垣間見えるサイケな音使い、M10「11月/November」で聴かせる何とも不思議な音や、後半のフィードバックノイズとギターの刻みがシームレスにつながる様子など、実験的なアプローチも随所にある。また、ラウドでガーンと迫る弦楽器と、ギターのアルペジオを同居させている点も強調しておきたい。今となっては余り注目されないかもしれないが、当時のパンク、ハードコアシーンにそんなバンドはいなかったのである。
楽曲の構成、サウンドが違うと書いたが、そもそも弦楽器は変則チューニングな上に、どうも既存のコードを弾いていないらしい。それゆえにトリビュートアルバム『Yes, We Love butchers』に参加したアーティストの多くは、コードが分からないのでコピーができないと随分と難儀したという。百戦錬磨のバンドマンをしてそう思わせる楽曲を有していたというのも何ともbutchersらしいエピソードであろう。とにかく彼らには“あれっぽいものをやろう”という意識が皆無だったと聞く。ラウドなものをやりたいという気持ちはあったのだろうが、何かを目指してやることはなかったというし、曲の方向性すら決めなかったという。黙々とギターを弾く吉村秀樹(Vo&Gu)に、射守矢雄(Ba)と小松正宏(Dr)とが、これまた何も言わないままに合わせていくのが、少なくとも『kocorono』当時の楽曲制作だったというから驚きだ。それゆえにだろうが、実際、音源にも微妙なずれがあることも確認できる。決してきれいにまとめていないのだが、メンバー自身がそれすらもバンドの個性と認識し、肯定していた。これもbutchersのすごさだと思う。吉村は『kocorono』を振り返り、“カッコ良いことばかりがロックンロールじゃない”“音楽は1+1=2みたいに計算できない。そこを大事にしたいし、命を懸け続けたい”と語っていたという。いずれもしびれる言葉だ。

想像力を膨らませる歌詞世界

そんなbutchersだから歌詞も決して分かりやすいそれではない。全編日本語で、とりわけ難しい言葉を使っているわけでないので、日本語ネイティブなら言葉の意味は分かるだろうが、おそらくそのほとんどが心象風景を描写していると思われるので、即読解するのは困難だろう。
《ぶあいそうな風いつまで/追うほどににげ どこまで/それでも君は知らぬふり/どこまで俺を苦しめる/殺れるものなら やればいい/「君の好きに勝手にするがいいさ」》《わすれはしない この想い/「大人になんかわかってたまるものか」》(M3「4月/april」)。
《ねぐるしい夜ぼくは目をこすり 君のドアを又たたいて/カギははずれかいだんをのぼりきる ほほをかすめる風のあいさつをうけ/気持ち良くそっと目をとじる あがく夏もぼくと共になだめ/夏の気分がぬけず又ここに さめた風は夏の終わりを告げる/はずかしくて ぬねくるしく はずかしくて 声も出せず》(M8「9月/September」)。
《クラクラと足がもつれ 気をゆるし家は遠く/どんどん迷い込んで 芯まで冷えてきて/流れ速いこの街で 自分に言い聞かせ/まだまだへこたれぬ こんどこそうまくやる/こぶしだけは ウソはつけぬ》(M11「12月/December」)。
ランダムに挙げてみたが、ほぼ全編がこの調子である。シチュエーションも前後の物語も明らかにされていないので、何を示しているのか、リスナーは想像するしかないわけだが、これらの歌詞が絶妙なメロディーに乗せられることで独特の雰囲気を醸し出しているのは確かだろう。余計に想像力が膨らむというか、世界観をふくよかにしていると思う。どこかで“butchersの音楽は分からない人は見向きもしないが、分かる人はとことんはまる”みたいな話を見たが、想像力を働かせる余地が多いゆえにそういうこともあると思う。これを聴かずして日本のロックを語ることなかれの名盤である。

著者:帆苅智之

『kocorono』/bloodthirsty butchers

OKMusic編集部

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