松田聖子を
元はっぴいえんどのメンバーが
本格ディーヴァへと導いた
重要作『風立ちぬ』

『風立ちぬ』('81)/松田聖子

『風立ちぬ』('81)/松田聖子

1stシングル「裸足の季節」の発売が1980年4月1日。松田聖子が先日、ジャスト、デビュー40周年を迎えた。1980年代を代表するトップアイドル中のトップアイドルであり、日本の芸能史にその名を刻む大スターであることは改めて説明するまでもなかろう。松任谷由実や財津和夫らとともに数々のヒット曲を世に送り出してきたが、彼女のアルバムの中から1作品を挙げるとするならば、やはり元はっぴいえんどのメンバーが制作に関わった『風立ちぬ』になるのではないだろうか。彼女の歌手としての変遷を振り返りつつ、その作品の位置付けを改めて考えてみた。

社会現象となったトップアイドル

“松田聖子”とググってあれこれ調べていたら、彼女に付随する数ある語句の中に“ぶりっ子”なる言葉を発見。超久しぶりにその文字面を見た。その“ぶりっ子”は、漫才コンビの春やすこ・けいこの十八番のネタだったし、一説にはこの言葉を流行らせたと言われる山田邦子が「邦子のかわい子ぶりっ子(バスガイド篇)」なるレコードをリリースするほどに持てはやされた言葉ではあった(豆知識→この「邦子の~」は日本におけるラップミュージックの元祖のひとつとも言われている)。誰かが彼女に面と向かってそれを連呼するような場面があった記憶はないけれど、一時期、松田聖子は“ぶりっ子”の象徴であった。それははっきりと覚えている。そんなふうに揶揄されるのも人気者の常なのだろうけど、デビュー間もなくトップアイドルになった松田聖子ではあったが、当初はそこに若干の嘲笑があったようには思う。松田聖子ののちにデビューした中森明菜、中山美穂辺りにどこかツッパリ的キャラクターが付与されていたり、小泉今日子が脱構築的なアイドル像を提供したりしたことは、“松田聖子≒ぶりっ子”の図式と無縁ではなかったような気もする。そう考えると、嘲笑の対象となったとはいえ、それ自体がしっかりと後世に影響を与えているのだから、これもまた彼女が大物だった証明とも言える。とにかく“ぶりっ子”は──少なくとも最初期において、松田聖子の重要なキーワードであり、高機能なキャッチコピーではあった。

しかしながら、もしその後そうしたイメージだけが継続されていたとしたら、松田聖子が現在のような老若男女問わず誰にも愛されるシンガーとなっていたかどうかというと、それははっきり“否”だと思う。その後の彼女の歌手人生が長続きしなかったとまでは思わないけれども、幅広い支持を集めていたかというと疑問は残る。こんなことがあった。松田聖子がチョコレートのCMの中で同じ年にデビューした田原俊彦と共演。1980年のことだ。若いアベック(※死語)の仲睦まじい姿が描かれた、今思ってもさわやか以外の何物でもない映像なのだが、そこは当時のトップアイドル同士のこと。特に田原俊彦=トシちゃんのファンの拒絶反応が半端なかったという。スポンサーへの抗議が殺到した挙句、CMは早々に打ち切られることになった。心ないファンからカミソリの入った脅迫状が届いたとも聞く。

ふたりが共演したことをスポンサーに抗議すること自体、呆れるばかりの出来事なのだが、それほどまで各々の人気が過熱していたのである。当時“聖子ちゃんカット”が大流行したので彼女に憧れる女性も相当数いたことは確かだが、一方で、アンチも多かった。そのアンチが女性ファンを相殺するほどにいたかどうかは分からないけれども、少なくとも1981年頃まで、すなわちデビューから1年間程度は圧倒的に男性ファンが支えていたことは間違いない。それは彼女のコケティッシュなキャラクターがストレートに作用した結果であっただろし、デビューシングル「裸足の季節」からブレイクを果たした2ndシングル「青い珊瑚礁」、そして3rdシングル「風は秋色」辺りまでは、今サッと聴き返しても、そのキャラクターを定着させるために腐心した作品群であったことが分かる。

OKMusic編集部

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