真の天才、矢野顕子が創りあげた驚愕
のデビュー作『JAPANESE GIRL』

20歳そこそこの矢野顕子がリリースした『JAPANESE GIRL』は、その半分がアメリカで録音されている。これだけを見ても、彼女が普通の新人ではないことが分かると思う。ソロデビュー盤となる本作には、矢野顕子という稀有の才能が詰まっている。たった一度聴くだけでも、当時のJロック界だけにとどまらず、現在においても、彼女が最高レベルのミュージシャンであることが確認できるはずだ。

三浦光紀とレニー・ワロンカー

本作は、なぜアメリカで録音されたのか…この答えは、三浦光紀(Wikipedia)というプロデューサーを抜きには語れない。
 70年代初頭、日本のロック界では、アメリカ西海岸の音楽シーンに大きな注目が集まっていた。特に、ワーナー・ブラザーズ・レコードの中にあったひとつのレーベル『リプリーズ』は、最初はジャズヴォーカルものやポップス作品が主流であったが、A&Rマンとしてレニー・ワロンカーが入社してからはロック系へとシフト、大きな才能を持った多くのロックミュージシャンを擁するレーベルとして認知されていく。また、ワロンカーはプロデューサーとしても多くの秀作を世に出している。
 彼がプロデュースした作品には、ヴァン・ダイク・パークス『Song Cycle』(’67)、ランディー・ニューマン『Randy Newman』(’68)、『Sail Away』(’72)、ライ・クーダー『Ry Cooder』(’70)、『Into The Purple Valley』(’72)、アーロ・ガスリー『Hobo's Lullaby』(’72)などがあり、ロック史に残る名盤は数多い。ちなみに、僕はこれらのアルバムを高校生の頃に入手したが、エリック・サティのような『Song Cycle』以外は、今でも愛聴している。

 ワロンカーの生み出す音作りは、リプリーズ・レコードがあった地名から“バーバンクサウンド”と呼ばれていた。これらの作品は、どれもポップスではあるものの、アメリカのルーツ音楽を下敷きにしながら、現代音楽や実験音楽のような風情が感じられる奇妙な仕上がりを特徴としていた。それだけに、批評家筋には受けが良くても、一般にはあまり売れなかった。しかし、はっぴいえんど周辺のミュージシャンたちは、これらのアルバムを評価していた。そんなこともあって、日本での認知度はかなり高かったように僕は記憶している。ロック雑誌『ニューミュージックマガジン』でも、それらのアルバムがよく取り上げられ、さまざまな議論がなされていた。“歌での新しい表現”をテーマに活動していたミュージシャンたちは、これらの作品やその批評に耳を傾け、自らの作品に投影していく。結果的に、これらがJロックの土壌を広げることになり、後世に残る良い作品が次々と生まれたのだと思う。
 三浦は、ワロンカーのようなプロデューサーを目指していたのではないだろうか。当初キングレコードの社員であった彼は、社内に『ベルウッド』という傍系レーベルを72年に作っている。ワロンカーのリプリーズ路線を、レーベル的にも音楽的にも踏襲しようとしたのではないか…これは、あくまでも僕の推論に過ぎないが。
 そして、はっぴいえんど最後のアルバムを、西海岸でレコーディングすることを、三浦は画策する。これは当時の日本のスタジオが、アメリカに比べると機材や技術面で劣っていたから、最高の条件ではっぴいえんどの才能を活かしたかったからだろう。そして、はっぴいえんどのアメリカ録音の経験が、本作『JAPANESE GIRL』や鈴木茂の『BAND WAGON』(’75)、高田渡の『FISHIN' ON SUNDAY』(’76)への布石となる。

はっぴいえんどとリトル・フィート

 1973年にベルウッド・レコードからリリースされた、はっぴいえんどのアルバム『HAPPY END』は、アメリカで録音され、ゲストとしてヴァン・ダイク・パークスとリトル・フィートの一部メンバーが参加している。
 ヴァン・ダイク・パークスはバーバンクサウンドの仕掛人のひとりであり、カリプソやスティールパン(Wikipedia)を一般に広めたことでも知られる奇才だ。『HAPPY END』の録音時は彼の2ndとなる『Discover America』(’72)をレコーディング中であったと思われるが、そのアルバムでリトル・フィートの曲「Sailin' Shoes」を取り上げていることもあって、一緒に参加したのかもしれない。

 リトル・フィートは、73年にリリースしたアルバム『Dixie Chicken』が世界的に評価され、日本でも人気が高かったグループだ。ニューオーリンズのリズム“セカンドライン”(Wikipedia)をロックファンに浸透させたことでも知られ、彼らが生み出す独特のグルーブ感(全員、抜群の演奏能力を持っている)は、ワンアンドオンリーだと言えるだろう。特にリズムセクションの面白さ(すごさ)では、同じ西海岸のタワー・オブ・パワーと双璧をなすほどの存在であったと言える。私事で申し訳ないが、彼らの来日公演(78年)は、今でも忘れられないインパクトであった。今でも、僕の観たロックコンサートの中では、彼らがダントツの1位である。『HAPPY END』にはリーダーでギタリストのローウェル・ジョージ(79年逝去)と、キーボードのビル・ペインの2名が参加しており、これは後の『JAPANESE GIRL』への直接的な橋渡しとなる。
 余談だが、桑田佳祐が彼らのファンであることはよく知られていて、サザン・オールスターズに「愛しのフィート」という曲があるが、歌詞の内容はリトル・フィートとはまったく関係ない。

『JAPANESE GIRL』がアメリカ録音だっ
たのは…

 さて、矢野顕子のソロデビューとなる本作、LP時代はアメリカン・サイド(A面)と日本面(B面)に分けられ、アメリカン・サイドには、前述の『HAPPY END』に参加したリトル・フィートの面々(キーボード奏者のビル・ペインは、矢野のピアノと被るためか不参加)がバックを受け持っている。本作に参加した頃は『HAPPY END』の時とは違い、4thアルバム『Feats Don't Fail Me Now』(’74)、5thアルバム『The Last Record Album』(’75)と力作を次々にリリースし、評価を得ていた時期だけに、このアルバムへの参加は驚きを持って迎えられた。今となってみれば、三浦光紀やはっぴいえんどの面々が、その道筋を付けていたことが理解できるが、当時はそんなことまでは分からず、ただただ不思議さを感じるしかなかった。
 リトル・フィートは、ドゥービー・ブラザーズやリッキー・リー・ジョーンズと並んで、ワロンカーの提示したバーバンクサウンドのロック寄りの後継者であること、また、75年にははっぴいえんどのメンバーである鈴木茂のソロアルバム『BAND WAGON』に参加して、大いに世間を騒がしていたことなどもあって、本作は国内で大きな注目を集めることになる。75年、三浦はキングのベルウッドから日本フォノグラムに移籍しており、それが理由で、日本フォノグラムからのリリースとなった。
 プロデュースは矢野誠(矢野顕子の当時の夫)、三浦光紀は‪エグゼクティブ・プロデューサー‬として指揮にあたっている。矢野誠は本作では小東洋という名を語っており、おそらくこれは、ニューミュージックマガジンの編集長だった中村とうよう(本名は中村東洋。2011年逝去)をもじったものだろう。

『JAPANESE GIRL』の収録曲

 本作は、3つのセッション・パターンから成り立っている。ひとつはリトル・フィートがバックを担当した、アメリカ録音の5曲。ひとつはムーンライダーズ(全員ではない)がバックを担当した日本録音。そして、彼女がデビューする前の73年に録音された、細野晴臣と林立夫がバックを務める「大いなる椎の木」(6曲目)のセッションである。この「大いなる椎の木」は、まだ矢野顕子という個性は完成しておらず、ポップで分かりやすい、ニューミュージックのような仕上がりで、他の曲のテイストとはまったく違うため少し浮いてしまっている。73年、この曲を含む彼女のソロアルバムがティン・パン・アレーをバックに迎えてリリースされる予定であったらしいが、なぜかお蔵入りになった。同時期にレコーディングされた他の楽曲は、彼女の3rd『いろはにこんぺいとう』(’77)などにも収録されている。

■アメリカンサイド

 1曲目の「気球にのって」は、早くもリトル・フィート独特のグルーブでスタート、セカンドライン的なリズムを持つナンバーだ。彼女の代表曲のひとつで、これまでさまざまなアレンジで演奏されてきた名曲。途中から繰り広げられる即興は、すごいのひと言。
 2曲目の「クマ」はタイトルの可愛らしさとは裏腹に、とても難しい変拍子で、バックを務めるリトル・フィートもついていくのが精一杯ではなかっただろうか。ローウェル・ジョージがギターの他、フルートと尺八まで吹いているのだから驚き。和風の旋律を持つ曲だからと、ローウェルのほうから「尺八入れようか?」と申し出たそうだ。ローウェルはかねてから日本通で、墨絵と尺八を習っていると来日時のインタビューで語っていたことがある。ペダル・スティールは駒沢裕城、シンセは矢野誠が担当している。
 次の「電話線」も矢野顕子を代表する曲で、これが一番好きだと言う人は多い。「気球にのって」と同じく、何度もアレンジを変えて未だにライヴで演奏されるナンバーだ。ちょっとスティーリー・ダンっぽい感じがあって、リトル・フィートにとってみれば、この曲でのバックが一番やりやすかっただろうと思う。
 4曲目の「津軽ツアー」は、これまで日本のロックでは演奏されてこなかった、民謡をベースにした純和風の曲。矢野顕子が切り開いた新しいスタイルだ。津軽民謡の「ホーハイ節」がベースになっているそうだ。これも変拍子。
 5曲目の「ふなまち唄 Part II」は、前曲と同様、民謡をモチーフにしたダンスナンバー(?)だ。和風であるのに、リトル・フィートの曲のような雰囲気がある。彼女のピアノが素晴らしく、なぜかビル・ペイン(今回は参加していないリトル・フィートのキーボード奏者)によく似ている。後半のプログレっぽいノリがカッコ良い。レコーディングの際、彼女はローウェルに「ねぶたのリズムで」と注文をつけたそうだ。

■日本面

 6曲目の「大いなる椎の木」は前述したように、73年録音。このスタイルで彼女がデビューしていたら、日本のロックシーンは今とは変わったものになっているはずである。ユーミンや尾崎亜美らと同じく、ニューミュージックの歌姫として売れに売れたかもしれない…。でも、矢野顕子のスケールは、こんなものではないのだ。いい曲だけどね。
 7曲目の「へりこぷたあ」は、つづみとストリングスが効果的に使われた、まるで現代音楽のようなナンバー。吉川忠英がギター、かしぶち哲郎がコンガで参加している。
 8曲目の「風太」も、「へりこぷたあ」と同じような現代音楽の香りが漂っている。ストリングスや琴の合奏が土臭い風合いを醸し出していて、とても清々しい気分になる。、「へりこぷたあ」と「風太」の秀逸なアレンジは、矢野誠が担当している。
 9曲目の「丘を越えて」は、それまでのロックの概念を超えた、名曲中の名曲だろう。演奏、アレンジ、歌のどれをとっても最高レベルの仕上がりだ。武川雅寛の琵琶とフラット・マンドリンが良い味を出している。2番でハモっているのは、あがた森魚。鈴木慶一は太鼓を、ペダル・スティールは例によって駒沢裕城が担当している。非の打ち所のない曲だと思う。
 最後を締めるのは、アメリカン・サイド5曲目の続編となる「ふなまち唄 Part I」。こちらは日本太鼓と笛など、和楽器を使っているので、より日本的な祭りのリズムが楽しめる。

『JAPANESE GIRL』と「バーバンク・サ
ウンド」

 アルバム全体では、和楽器の使用や民謡風のヴォーカルが特徴として挙げられる。76年頃と言えば、世界レベルで洒落たAORが流行していた時代で、日本でもAOR寄りのニューミュージックが受けていた。歌謡曲とは一線を画したいという理由からか、極力“和”の部分を排除するのが主流だった。ところが、彼女は世間の流行とは逆に、和のテイストを取り入れることで自己のアイデンティティを主張する。それはまさに、タイトル通りの“JAPANESE GIRL”というアイデンティティなのだ。
 僕は、冒頭で「三浦はワロンカーになりたかったのでは?」という仮説を立てた。そして、「〜バーバンクサウンドとは、ポップスではあるが、アメリカのルーツ音楽を下敷きにしながら、現代音楽や実験音楽のような風情が感じられる奇妙な仕上がり~」だと説明した。この“アメリカ”という言葉を“日本”に置き換えれば、『JAPANESE GIRL』という作品がほぼ説明できるのではないだろうか。そう考えれば、三浦は日本のレニー・ワロンカーになったと言えるのかもしれない。

著者:河崎直人

OKMusic編集部

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