日本のガールズバンドのパイオニアZ
ELDAによる国産ニューウェイブの最高
傑作『空色帽子の日』

当初は“無機質”とも評された少女たちの個性は、作品を重ねることでまさに唯一無二の輝きを放つオリジナリティへーと昇華した。

ポストパンクから派生した新しい波

ZELDAと言っても若いリスナーには馴染みがないバンドではなかろうか。今、ZELDAと言えば“リンクが冒険するアクションRPG”を想像する読者が大半だと思われるが、80年代にZELDAと言えば彼女たちの呼称以外の何物でもなかった。大ヒット曲があったわけじゃないし、1996年の解散後もメンバーはそれぞれに活動を続けているものの、その場が所謂メジャー音楽シーンばかりでないこともあって、もはやZELDAの存在は風化しかけている気もする。再結成の噂もほとんど聞いたことがない。だが、女性グループとして最も長い活動歴を持つことでギネスブックにも記載されているZELDAが、日本のガールズバンドのパイオニアとしてロックシーンにその名を刻む偉大なバンドであることは疑いようがない。バンド形態に限らず多種多様なガールポップが存在する今こそ、彼女たちの音楽性は再評価されていいのでは、と個人的には強く思うほどだ。ZELDAを風化させてはならない義務感のようなものを勝手に感じて本稿を寄せた次第である。

彼女らは80年代後半からファンク、ブラックミュージックに傾倒しはじめ、ルーツミュージックへと音楽性を変化させており(この辺は後述する)、そのサウンドの特徴はひと口に語れないのだが、筆者の思い入れが強いのは80年代前半の所謂ニューウェイブと呼ばれていた頃の音だ。そもそもニューウェイブ自体、非常に曖昧なジャンルで、パンクロック以降に出てきた新しいサウンドは何でもかんでもニューウェイブと括られていたようなところがあったのだが、強いて言えば“既存のロックの枠に囚われない精神”を持った音楽がニューウェイブ(=新しい波)と呼ばれたのだろう。悪く言えば何でもアリで、中には確かな音楽的バックボーンがないバンドやユニットが存在したことも否定しないし、初期ZELDAに確固たる音楽的素養があったとも言い難いのであるが、(おそらく、それゆえに…であろう)彼女たちはえも言われぬ音楽スタイルを作り上げる。特に注目されたのは文学的と言われた歌詞世界だ。1stアルバム『ZELDA』収録の「開発地区はいつも夕暮れ」や、2ndアルバム『CARNAVAL』収録の「うめたて」が顕著だが、東京出身の高橋佐代子(Vo)の原風景である70~80年代の東京の街並みを幻想的に綴ったリリックはとても新鮮だった。これらの歌詞が抑揚の少ないメロディーと相まったことで“無機質”とも評され(中には“暗黒”なんて評もあった)、初期ZELDAのイメージは決定付けられたところはあるが、“無機質”というキーワードは極めてニューウェイブ的であった。1stアルバム『ZELDA』はパンク色が濃かったものの、白井良明氏がプロデュースした2ndアルバム『CARNAVAL』ではポップロック、ハードコアからジャズ、クラシックと多彩なサウンドを披露し、ポストパンクを印象付けたことも見逃せない。

巧みなアレンジと構成が生み出した奇跡

そして、彼女たちの才能は、共同プロデューサーとして再び白井良明氏を迎えた3rdアルバム『空色帽子の日』で開花。ニューウェイブ期ZELDAはひとつの結実をみせる。この『空色帽子の日』を今もなおZELDAの最高傑作と捉えているファンは少なくないし、90年代頃までの音楽誌、サブカル誌で“邦楽ロックの名盤”なる特集があれば必ず名前が挙がっていた80年代邦楽シーンの傑作であることは間違いない。個人的にはこのアルバムの良さはその構成にあると思う。可愛らしいワルツ曲(1)「DEAR NATURAL」からはじまり、エッジの立ったギターサウンドを響かせる(3)「FOOLISH GO-ER」、”無機質”な初期ZELDAの香りを残す(4)「FLOWER YEARS OLD」、(5)「WATER LOVER」を経て、アラビア音階とマーチングビートを組み合わせた奇天烈なナンバー(7)「小人の月光浴」(奇天烈だがテンションが高くてかなりカッコいい!)、疾走感あふれるロックチューン(10)「ハベラス」へとつながっていくのだが、一見同居しそうもない個性の強い楽曲たちが見事にまとまってパッケージされている。楽曲同士はシームレスにつながっているわけではないのであまり巧い喩え方でないかもしれないが、優れたクラブDJのプレイの如く、流れがスムースでありつつ、しっかりと起承転結があるのだ。これはバンドアレンジの巧みさはもちろんのこと、ミックス作業を含めてのサウンドアプローチの妙味が合わさった結果であろう。わずか40分程度の作品だが、いい意味で短く感じさせない深みがあるし、後半に進むにつれて何とも言えない高揚感を得ることができる。今聴いてもその点は揺るぎない。

先ほども書いた通り、ZELDAはこの後、5thアルバム『C-ROCK WORK』、ライヴアルバム『Dancing Days』をはさんで、6thアルバム『SHOUT SISTER SHOUT』でその音楽性を変え、ファンク、ブラックミュージックという“無機質”と言われていた頃とは180度異なるサウンドアプローチを見せる。その変遷は当時のファンには賛否両論…いや、はっきり言って受け入れることができないファンが大多数だったと記憶している。しかし、改めて『空色帽子の日』を聴いてみると、後の変遷につながる要素も確認できる。顕著なのはドラム。16ビートは今作に限ったことではないにしろ、全体的にリズムが活き活きしていて、その躍動感は(今になって思えば)その後の彼女たちが血の濃い音楽に惹かれていくことを暗示しているかのようだ。また、歌詞世界も、(9)「無人号地・357」のように、タイトルからして初期を踏襲しているものもありつつ、(1)「DEAR NATURAL」からして《火を受け 水に潜り 風にそよぎ 地を歩く とても大きな 地球に 愛をすいこむ 深呼吸》と、いきなりオーガニックな雰囲気。続く(2)「自転車輪の見た夢」では《高速道路の下の廃屋で眠り》と都会的キーワードを示しつつ、《自転車輪でこいでゆく》と人力にこだわりを見せている。つまり、『空色帽子の日』というアルバムはニューウェイブバンドとしてのひとつの完成形ではあるものの、決してそれだけでなく、(彼女らがそれ意図したかどうかはともかく)新たなフィールドを模索する姿勢を垣間見ることができるのだ。音楽に限らず、芸術作品においては完璧なものが必ずしもベストではない。少なからず過渡期ならではの緊張感をはらんでいる点も『空色帽子の日』を名盤に仕上げている要因かもしれない。

ZELDAは女性の成長物語

“ZELDAは女性が成長し、変化していく過程を見せ続けてきたバンド”であることはメンバーたちも自覚していた。それになぞらえて、『空色帽子の日』は少女が大人の女性になる瞬間を捉えた作品と見るのは穿った考えだろうか。いつまでも幼いと思っていた娘が見せる大人っぽい仕草や言動。優れた絵画や写真がそういったものを閉じ込めるように、いろんなタイミングが重なり、その時にしか成し得なかった音、歌詞、サウンドを瞬間パックしたアルバムが『空色帽子の日』なのだろう。だから、いつまでも瑞々しい作品なのだ。…と締め括ると、みなさんに“じゃあ、その後のZELDAはオバさん化していったの?”と思われる恐れもあるので若干補足。さにあらず。90年代以降、レーベルをCutting edgeに移してからも彼女たちは素晴らしい作品を産み出し続けた。この頃からルーツミュージックを積極的に取り入れるのだが、作品毎に民族音楽を見事に吸収し、ポップに仕上げていったのだ。特に8thアルバム『FULLMOON PUJAH』と、9thアルバム『虹色にあわ』(これがオリジナルアルバムのラスト)は素晴らしい出来栄えで、機会があれば解説したいほどである。パンク、ニューウェイブ、ブラックミュージック、ルーツミュージックと形を変えつつも、良質な作品を作り続けたZELDA。彼女たちに思いを馳せると、女性はやはり強くて、たくましいことを再確認させられる。

著者:帆苅竜太郎

OKMusic編集部

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