『オーヴァードーズ』は小西康陽が
野宮真貴の魅力を最大限に引き出した
ピチカート・ファイヴの傑作!

『オーヴァードーズ』(’94)/ピチカート・ファイヴ

『オーヴァードーズ』(’94)/ピチカート・ファイヴ

10月31日、2014年の『野宮真貴、渋谷系を歌う。~Miss Maki Nomiya Sings Shibuya-kei Standards~』から、2017年の『野宮真貴、ホリデイ渋谷系を歌う。』まで、シリーズ全5作のアルバムから“渋谷系”の代表曲をコンパイルした野宮真貴のベスト盤『野宮真貴 渋谷系ソングブック』がリリースされた。「東京は夜の七時」はリリース25周年を記念して、2001年のピチカート・ファイヴ解散後初の小西康陽編曲・プロデュースによる新録されており、ファン垂涎の音源として話題となっているが、本コラムも便乗して今週はピチカート・ファイヴでいこうと思う。もちろん、「東京は夜の七時」が収録されたオリジナルアルバムの紹介だ。

“渋谷系”を体現したアーティスト、
小西康陽

ピチカート・ファイヴを語ろうとする時、避けて通れない“渋谷系”なるカテゴリー。四半世紀も前の言葉ゆえに、下手をすると今や“新新御三家”や“竹の子族”くらいの年代ものになっているのかもしれないが、まずはこの“渋谷系”とは何なのかを見てみよう。Wikipediaでは以下のように説明されている。

[それまでの流行りであった“イカ天バンド”などの流れとは一線を画し、1980年代のニューウェイブやギターポップ、ネオアコ、ハウス、ヒップホップ、1960年代・1970年代のソウルミュージックやラウンジミュージックといったジャンルを中心に、幅広いジャンルの音楽を素地として1980年代末頃に登場した都市型志向の音楽であるとされる。いとうせいこうは「渋谷レコ屋系」と分析し、「渋谷のレコード店に通い世界中の音楽を聴いたアーティストたちによって生み出された音楽」と述べており、渋谷系の共通点については、「オシャレ」、「力まない歌声」、「メインストリームとの絶妙な距離感」を挙げた](Wikipediaからの引用)。
“渋谷系”とは明確な音楽ジャンルではないので、[幅広いジャンルの音楽を素地]というのはその通り。ポストモダンとか、大きく言えばルネッサンスとかに近い概念だったと言ってもいいかもしれない。いとうせいこう氏の指摘もかなりしっくりくる。1980年代前半~1990年代半ばの渋谷はレコードの聖地だった。最盛期にはレコードを扱うショップが200店舗近くもあったそうで、大袈裟ではなく、世界中のレコードが渋谷に集まっていたという。音楽マニアたちはそこで古今東西、雑多な音源を漁りまくった。

もっともピチカート・ファイヴのメジャーデビューは1985年なので、小西康陽をはじめ、高浪慶太郎らオリジナルメンバーが全盛期の渋谷の街で積極的にレコード収集に励んでいたかどうか分からないが、小西が筋金入りのレコードコレクターであることはファンならよくご存知の通り。音楽コラム、レコード評での執筆でも知られているし、グラフィックデザイナーでありフォトグラファーでもある常盤響氏との共著『いつもレコードのことばかり考えている人のために。』では1,500枚ものレコードを紹介している。

また、こんな話もある。1998年、小西はふかわりょうとユニット、ROCKETMANを結成した。当初はふたりの役割が分かれていたそうで、小西が音楽担当、ふかわがコント担当となっていたが、曲作りの現場に足を運んだふかわは小西の仕事っぷりにかなりの衝撃を受けたという。バッグから何枚かレコードを取り出してプレーヤーに乗せてサンプリング。それを数回繰り返すといつの間にか曲ができていたと、ふかわは述懐している。幅広くいろんなジャンルの音源を大量に聴いて体内に吸収していなければ、とてもそんなことができるわけがない。天才の所業にふかわは舌を巻いたという。小西は自身の音楽を“録音芸術”と呼んでいたと聞くが、それはまさしくアートの域であった。

フリッパーズ・ギターのふたりがそうであったように、小西もまた一流のアーティストであると同時に、一流のリスナーであったことは間違いない。しかも、年齢から考えれば、渋谷がレコードの聖地となった頃にはそのスタンスを確立していた、全盛期の渋谷の街においてはマニアが羨望の眼差しを向けるような人物であったと思われる。その点では氏自身が好むと好まざるとに関わらず、まさしく小西康陽こそ“渋谷系”を体現したアーティストであったと言っていいと思う。ピチカート・ファイヴを聴くことでその向こう側に宏漠なる世界があることを知り、音楽の趣味が広がったという人も少なくなかったことだろう。

本歌取で換骨奪胎なその表現スタイル

小西康陽、ピチカート・ファイヴに限らず、“渋谷系”と呼ばれたアーティストたちの特徴として、自身が好きな音楽を自らの音楽に取り込むことに躊躇がなかった点が挙げられる。ヒップホップの手法、とりわけDJやサンプリングがポピュラーになったことがそれに大きく影響していたのだろう。同じことをバンドが人力でやったらパクリだ何だと言われるところを、大手を振ってやれた…というとやや語弊があるかもしれないが、送り手も受け手もその最先端の表現方法に歓喜していた(もしかして所謂渋谷系アーティストにユニット形態が多かったのはそういうことか!?と今思ったが、そう単純な話でもないか…)。

渋谷系の楽曲は、和歌で言うところの本歌取、詩文での換骨奪胎に酷似していたと思う。送り手も受け手も、その知識量とセンスが大きく問われるようなところがあった。とはいえ…中にはスノッブに元ネタをひけらかすような輩もいたのかもしれないが…その多くは無邪気な音楽マニアで、埋もれていた曲を見つけてきてはキャッキャと楽しんでいたような印象はある。アーティストサイドからすると“こんなのあったよ!”であり、リスナーサイドからは“こんなのあったの!?”であったと思う。

ピチカート・ファイヴ楽曲の多くでも元ネタは分かりやすく配されている。アルバム『オーヴァードーズ』収録で言えば、M2「エアプレイン」、M10「ヒッピー・デイ」を例に挙げるのが良いだろうか。前者はDonovanの「Epistle to Dippy」、後者はYoung-Hold Unlimitedの「Soulful Strut」への明らかなオマージュだ。ネタ元と聴き比べてもらえれば分かると思うが、それぞれの楽曲の印象的なフレーズを結構大胆に取り込んでいる。しかし、だからと言ってカバーのような感じではなく、あたかも最初からそこにあったかのような配し方と言おうか、“上手に入れたなぁ”とその仕事っぷりを湛えたいほどの巧みさである。

かと思えば、M9「東京は夜の七時」では“The Rolling Stonesの「Brown Sugar」ですよー!”とばかりにコーラスで《Yeah, yeah, yeah, wooo》を入れている。たぶんアレを入れても入れなくても楽曲そのものは大きく変わらないと思うので、おそらく彼らが確信的にサンプリングを多用していたフラグみたいなものだったと理解すればいいだろうか。アルバム『オーヴァードーズ』のテーマは“ロック”だったそうだが、その辺にも関係していたのかもしれない。

M9「東京は夜の七時」と言えば、これはもともとこの楽曲はフジテレビの番組『ウゴウゴルーガ2号』のテーマソングとして制作されたもので、アルバムに収録されたものとは大分、雰囲気が異なる。タイムはオリジナルの倍以上。4つ打ちのハウスビートをさらに強調した印象で、歌ものというよりもダンスミュージックといった様相だ。歌詞はかなり違う。

《あの日あなたに逢えず/ひとりでホテルに泊まった/一晩中眠りのない街/トーキョーは夜の七時》《ひとりで食事を済ませて/窓から街を眺めて/気が済むまで泣いて眠った/トーキョーの夜はフシギ》《ぼんやり風に吹かれた/タクシーの窓を開けて/あなたは何処にいるの/トーキョーは夜の七時》《あなたに逢えなくなって/あれから一年経って/私だって少し変わった/トーキョーは夜の七時》(M9「東京は夜の七時」)。

アルバム発表時には公表していなかったが、『オーヴァードーズ』バージョンには“one year after”という副題がある。1年後というだけあって、その物語にも変化が見られ、《早くあなたに逢いたい》の受け取り方が変わるというか、悲喜こもごもな様子も伝わってくる。連作としても味わい深く、こんなところからも小西康陽のセンスを良さが感じられるところだ。さらに言えば、企画ミニアルバム『ウゴウゴルーガのピチカート・ファイヴ』に収録された、のちに“readymade mfsb mix”と名付けられたバージョンの「東京は夜の七時」では、Harold Melvin & the Blue Notesの「Tell the World How I Feel About 'Cha Baby」を引用。とことん、渋谷系の小西であった。

ちなみに、余談ではあるが、“東京は夜の七時”というタイトルはテレビ番組『ウゴウゴルーガ2号』が東京で夜7時オンエアと聞いた小西が「じゃあ、“東京は夜の七時”で」と即答したものだそうだ。矢野顕子にも『東京は夜の7時』というライヴアルバムがある。おそらく、“東京”、“夜7時”と来たら、条件反射的に『東京は夜の7時』→「東京は夜の七時」が口から出たのであろう。ここからも彼のレコードコレクターの性が推測できる。

ヴォーカル、野宮真貴の存在感

さて、そんな元祖渋谷系、古今東西の音楽をこよなく愛する男、小西康陽が司ったピチカート・ファイヴは野宮真貴の存在感なくしては語れない。これは動かしがたい事実だ。小西がグルーブの頭脳なら野宮がその他、本体の全てと言ってもいいほどだろう。

もはや、デビュー時のピチカート・ファイヴが4人編成のバンドであったことや、2代目ヴォーカリストがオリジナル・ラヴの田島貴男であったことも知らないリスナーのほうが多いのかもしれない。多くのリスナーにとって、ピチカート・ファイヴと言えば、野宮・小西のユニットといった印象だろう。それは野宮加入後にヒット曲が生まれたからでもあろうが、逆に言えば、それだけ野宮のキャラクターがピチカート・ファイヴにジャストフィットしていたからだとも言える。小西のプロデュース力も見事だった。もしかすると音楽を知る以前にそのルックからピチカート・ファイヴに惹かれた人もいたかもしれない。

もちろん、野宮にはルックスだけでない、歌唱力に裏付けされたシンガーとしての魅力も十二分にあった。アルバム『オーヴァードーズ』であれば、M5「ハッピー・サッド」でのパンチの効いた歌声でそれが確認できる。また、ヴォーカルの旋律を他の楽器と並列に扱っているからだろうか、M9「東京は夜の七時」を始め、歌はキャッチーでありつつ、ループと言ってもいいようなリフレインするタイプが多く見受けられるが、それでも単調に聴かせないのはヴォーカリストの手腕があってのことだろう。冒頭で所謂渋谷系の特徴のひとつとして“力まない歌声”があることを引用したが、聴いた感じは暑苦しくはないものの、力を抜いてはあの声は出ない。野宮真貴のヴォーカルスタイルは確かにスタイリッシュだが、決して脱力系のシンガーではないこともよく分かるのである。

オープニング、エンディングにアルバムタイトルを仏語(だよね?)で入れたり、M4「レディメイドFM」では仏語(これはたぶんそう)のナレーションを、M7「If I were a groupie」で宇野淑子アナウンサーのナレーションを大幅にフィーチャーしたり、ポップアート的な試みも、野宮の持つ空気感にパシッとハマっている。基本的に恋愛をベースにしつつも、それだけに依存しない(ように思える)ライフスタイルを描いた歌詞も同様だ。それは、のちに、シンガーソングライターではなく、職業作家になりたかったと述懐し、実際に数多のアーティストのプロデュース、楽曲提供を行なうこととなる小西康陽のプロデューサーとしての萌芽だった。一部では、それ以後のピチカート・ファイヴは『オーヴァードーズ』の繰り返しと揶揄する声もあるようだが、それは『オーヴァードーズ』でグループの型がしっかりと出来上がったからと見ることもできよう。その意味で、『オーヴァードーズ』は良作の多いピチカート・ファイヴの中でも格別のアルバムと言うことができると思う。

TEXT:帆苅智之

アルバム『オーヴァードーズ』1994年発表作品
    • <収録曲>
    • 1.OVERTURE
    • 2.エアプレイン
    • 3.自由の女神
    • 4.レディメイドFM
    • 5.ハッピー・サッド
    • 6.スーパースター
    • 7.If I were a groupie
    • 8.ショッピング・バッグ
    • 9.東京は夜の七時
    • 10.ヒッピー・デイ
    • 11.世界中でいちばんきれいな女の子
    • 12.クエスチョンズ
    • 13.陽の当たる大通り
『オーヴァードーズ』(’94)/ピチカート・ファイヴ

OKMusic編集部

全ての音楽情報がここに、ファンから評論家まで、誰もが「アーティスト」、「音楽」がもつ可能性を最大限に発信できる音楽情報メディアです。

新着