ロンドン・パンクに日本的文脈を注入
したアルバム『アナーキー』で鮮烈な
デビューを果たしたアナーキーは日本
のパンクロックの象徴だ!

社会への不平不満を性急なリズムのR&Rに乗せて叫んだ日本のバンドで、最初に成功したのがこのアナーキーだろう。後のロックシーンに多大な影響を与えた彼らの出現は邦楽史上の転換点と言っても過言ではない。

世界を席巻したパンク・ムーブメントの

パンクは反逆の音楽である。最近では“パンク=前向き”、あるいは“パンク=希望”といった解釈をするリスナーが多いのではないかと思われるが、もともとパンクは反逆以外の何物でもなかった。パンク・ムーブメントは1976年のセックス・ピストルズのデビューに端を発する(諸説あるがムーブメントとなったのはここだろう)。彼らは1977年の1stアルバム『勝手にしやがれ』の収録曲『アナーキー・イン・ザ・U.K.』で《俺は反キリスト者だ》と叫び、『ゴッド・セイヴ・ザ・クイーン』では《女王陛下、あなたに未来はないぜ》と吐き捨てた。また、ピストルズと並ぶもう一方のパンク・ムーブメントの雄であるザ・クラッシュも、1977年の1stアルバム『白い暴動』のタイトルチューンで《白人の暴動を起こせ》と歌った。失業率が高かった当時のイギリスで職にあぶれた若者たちがその鬱屈したエネルギーをR&Rにぶつけた…というのがパンク発祥の定説である。実際のところ、ピストルズのプロデューサーであったマルコム・マクラレンが仕掛けたもので、自然発生的に産まれたものではないとの見方が有力だが、仕掛けがあったにせよ、権威や権力などに逆らうR&Rなどそれまでになかったもので、当時の衝撃は相当なものだったようだ。所謂保守層から大反発をくらい、ピストルズのライヴは中止運動が起こったり、メンバーが暴徒に襲われたり、と音楽性以外にもエキセントリックな話題を提供していたとも伝え聞く。今では考えられない話だが、パンク・ムーブメントのエネルギーを逆説的に証明する逸話だろう。その後、パンクは世界を席巻してひとつの音楽ジャンルとして現代に定着するに至ったことはご存知の通りだが、そのうねりはもちろん日本へも渡来した。1978年結成のアナーキーは日本でその影響を色濃く、いち早く受けたバンドである。

ロンドン・パンクの正当なる継承

そもそもバンド名の“アナーキー”はセックス・ピストルズの『アナーキー・イン・ザ・U.K.』から拝借したもので、デビューアルバム『アナーキー』にはザ・クラッシュのカバー曲を収録していることからパンクの影響は明白であるのだが、アナーキーはパンク・ムーブメントから音楽性、ファッション性、そしてそのイデオロギーを正しく継承したバンドであったと思う。まず音楽性。ほとんどが基本中の基本である3コードR&Rで(2コードもある)、サウンド面でも小難しさ一切なし。しかも、3分を超える楽曲がひとつもなく、トータルの収録時間は30分以下と、清々しいほどに“シンプル・イズ・ベスト”である。演奏は─メンバーは当時20歳くらいということもあって決して巧いと評されるものではないが、かといって粗野ではなく基本に忠実にちゃんと演奏しているという印象で、こう言うのもアレだが、好感の持てるサウンドである。個人的に最も惹かれるのは仲野茂のヴォーカルだ。アルバム『アナーキー』収録時は声変わり仕立て…だったわけではあるまいが、少年のあどけなさを残す微妙な甲高さと揺らぎを湛えた声質は、あのタイミングでしか録れなかったものであると思うし、あの声であの内容(後述する)を歌っているからこそ独特の緊張感をはらんでいるのは間違いない。ちなみに、伝説のカルト映画『狂い咲きサンダーロード』で主人公の仁を演じた山田辰夫氏の声もこの頃の仲野茂に似た微妙な甲高さと揺らぎを湛えており、「やっぱり不良の声はこうじゃなくちゃ」と思ったりもする。もういっちょちなみに、アルバム『アナーキー』のリリースと、映画『狂い咲きサンダーロード』の公開はいずれも1980年だったりする。これは単なる偶然ではなかろう。
アナーキーのファッションはそのバンド活動そのものに関わることで、アルバム『アナーキー』に直結するものではないのだが、パンクバンドとしてのアナーキーを語るにはそのファッションセンスは外せないところだ。“破れたシャツ、安全ピン、逆立てた髪”の元祖ロンドンパンクに対して、逆立てた髪は一緒だったが、アナーキーのメンバーは国鉄(現JR)の作業服─通称“ナッパ服”を着用していたというのは何ともセンスが良かった。仲野茂の父親が国鉄職員だったことからこれをステージ衣裳にしたということらしいが、バブル景気前の当時の日本では破れたシャツを安全ピンで止めるなんて貧困層はおそらく存在していなかったから(まぁ、当時のロンドンでも実際にはそれほど存在していなかったとの説もあるが、話がややこしくなるのでそうだったことにしておいてください)、これをそのまま持ってきては単なる洋楽のコピーバンドに成り下がることを理解した上での選択だったのだはなかろうか。国鉄職員は決して社会的下層だったわけではないが、元祖パンクは労働階級の音楽を標榜していたところはあったわけで、その意味では日本版労働階級の象徴としての“ナッパ服”は素晴らしいステージ衣裳だったと思う。アイコンとしても見事に機能していた。

一億総中流化の同調圧力に反発

さて、アナーキー─というよりも初期パンクを語る上で欠かせないのがそのイデオロギーであり、冒頭で述べた“反逆の音楽”とは概ねここに帰結する。ピストルズやクラッシュは当時のイギリスの社会状況を揶揄したが、これがそのまま日本に当てはまるわけではなかった。今もなお日本には原理主義的宗教があるわけではないし、何より当時の日本は高度成長期以来、景気が衰えておらず、国民は概ね自らが中流という意識を抱いていた。俗に言う“一億総中流化”である(1979年の国民生活白書には「国民の中流意識が定着した」という評が載っている)。つまり、失業率の高さから生まれるような負のエネルギー自体はほとんど存在しなかったと言ってよい。しかし─ここがアナーキーの功績だと思うが、彼らは当時の日本の若者が共感し得る鬱屈したエネルギーをロンドンパンク・サウンドに載せたのだ。《政治家なんて俺達には関係ないけど 今の生活 満足してるわけじゃないのさ》(M1「ノット・サティスファイド」)。《マンネリ 人並み世間体 会社も社会も関係ねぇぜ(中略)やりたくない仕事をやって もううんざりしちまうぜ》(M4「3・3・3」)。《同じ人間ばかり作ってゆこうとするのさ 俺達ぁ大量生産の缶詰とは違うぜ》(M5「缶詰」)。《むかつくだけさ 勉強なんて いつでも いらいらするのさ》(M12「教室の中で」)。今となれば「教育も受けられて、職にも就けたというのに、君らは何を甘えたことを…(苦笑)」と一蹴されそうな内容ではあるが、パンクらしい抑圧された若者ならではの不平不満を、当時の日本標準に水平展開した歌詞はほとんど発明と言ってよい。一億総中流化に隠された同調圧力にあがなう姿勢はパンクうんぬん以前にアーティストとしての矜持であると理解できる。
さらには、《波乗りできない奴等が ボードを片手に街の中 いつでも流行りを追いかけ ファッション雑誌と睨めっこ》(M6「シティ・サーファー」)と丘サーファーに噛み付くわ、《自慢話と陰口ばかり 欲求不満のあのオバサン》(M9「団地のオバサン」)と主婦に噛み付くわ、《おちたもんだぜロックスター 今じゃロックも歌謡曲 愛だ 恋だとさえずって 今でも じじいのさるまねか》(M8「ロック・スター」)や《あいつら なんで そんな歌を 真面目くさって 歌えるのさ そんな歌を唄っても 何にもなりゃしないのさ》(M10「季節の外で」)と他アーティストへ噛み付くわ、他にも言いたい放題なのだが、その傍若無人さが仇にもなった。このアルバム『アナーキー』には本来4曲目に「東京イズバーニング」という楽曲が収録されていた。これはザ・クラッシュの「ロンドンは燃えている!(London's Burning) 」のカバー曲で、原曲の王室批判よろしく、歌詞は日本の皇室をターゲットにしたものだ。その内容はここでは詳しくは書かないが、政治団体からの抗議を受けて「東京イズバーニング」は放送禁止。アルバム『アナーキー』は回収という事態に陥った。後に再発されたものの、「東京イズバーニング」は削除され、以後、本作には収録されていない。今回本稿作成のためCD版を入手したのだが、当然のことながらこちらにも収録されてなかった。当時リアルタイムで聴いた身としては、「ジョニー・B・グッド」の次が「3・3・3」というのは違和感ありありだったが、こればかりは詮無きことだ。ただ、実にもったいない。(ちなみに○○○Tubeで検索すると簡単に出てくるのでご興味がある方はどうぞ)。
アルバム『アナーキー』は10万枚を超えるセールスを記録し、アナーキーは日本のロックシーンに確かな足跡を印した。尾崎豊や甲本ヒロトらがファンを公言するなど後世に名を馳せる多くのロックミュージシャンにも影響を与えており、アナーキーがいなかったら今の日本ロックシーンはその様子を変えていたに違いない。その存在は歴史の転換点であり、ビッグバンであったとも言える。また、彼ら自身の音楽性が深化し続けたことも特筆すべき点だ。ザ・クラッシュのようにレゲエやダブを披露した他、90年代にはデジロックも取り入れるなど、実に精力的に活動を展開。90年代後半にインタビューする機会に恵まれたのだが、当時の音源があまりにも瑞々しくて正直驚いた。素直にそのことをメンバーに伝えると、ギターの藤沼伸一氏に「年寄りの冷や水とでも言いたいの?」と苦笑まじりで叱られたが…(苦笑)。紆余曲折あってバンドは活動休止と再始動を繰り返してきたが、2001年以降はアナーキーとしての活動は行なわれていない。そろそろ再始動の頃合では…と外野は思うのだが、それを決めるのはメンバー5人だけだ。

著者:帆苅竜太郎

OKMusic編集部

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