高野 寛が『CUE』で示した
“虹の都”とは
アーティストとして理想郷だった
ソロ活動の他、多彩に活動を展開
《この声は小さすぎて 君の元までは届かない/例えそれを知っていても 叫ばずにいられない/besten dank》《こんなところにも 壁が待っていた/交わろうとする そして乗り越える/でも 全ては水に流れてく》《くぼみに落ちたり 雨に撃たれたり/虹の都へは 遠すぎるようだ/でも 待つことはできない Uh/この窓は小さすぎて 君の顔さえも判らない/例えそれを知っていても 開かずにいられない》(5thシングル「ベステン ダンク」・1990年)。
全般的には前向きと言える内容ではあろうが、悔恨も垣間見える。ちょっと複雑な歌詞にも思える。その真意を高野本人が答えているインタビュー記事を見つけた。以下に引用させていただく。
[そもそも僕は目立ちたいタイプじゃないので、自分がテレビに出るなんてまったく考えてもいなかった。一気に生活が変わってしまって戸惑っていたし、熱狂の渦に自分が放り込まれたことも受け止められなくて。今思えば、あまりに無防備だし、じゃあなぜメジャーデビューしたの?と自分に説教したくなります(笑)][そんな葛藤の中、「虹の都へ」に次いで、これもトッドのプロデュースでリリースした「ベステン ダンク」は、実はビートルズの「Help!」と同じ気持ちで作った曲なんです。でも僕は、「ヘルプ」ではなく「ありがとう」とした。それは、戸惑いと同時に恵まれすぎていることへの感謝の気持ちもあったから。「ありがとう」や「サンキュー」ではわかりやすすぎるし、リリースした90年は、ベルリンの壁が崩れドイツが東西統一した年ということもあって、ドイツ語でありがとうを意味する「ベステン ダンク」に。歌詞につづった「こんなところにも 壁が待っていた」というフレーズは、自分の中の葛藤と、時代の激動、二つの意味合いを刻んだのです](「朝日新聞デジタル 2015.12.18」より引用)。
これだけで断定するのはやや乱暴かもしれないけれど、少なくとも「虹の都へ」発表後に大きな戸惑いがあったことが分かるし、「ベステン ダンク」の歌詞には自身が理想とする音楽を探求せんとするスタンスが表れていると理解することもできる。実際のところ、『CUE』以降の高野寛の動きは独特だ。自身のシンガーソングライターとしての活動の他、ギタリストとして1990年代から坂本龍一や宮沢和史の海外ツアーに参加したり、多くのアーティストの作品に参加。2000年以降は、Nathalie Wise、4B、GANGA ZUMBA、pupaといったバンドにも加わった上、ソロでも高野 寛名義以外に“HAAS”名義でも活動している。もちろん、他者への楽曲提供、プロデュースも行なっているし、2013年からは大学の特任教員を務めている。そして昨年、シングル「See You Again」で1989年にデビューしてから30周年を迎えた。誰もが知るヒット曲こそないが、アーティストとしてミュージシャンとして極めて順調に、そして充実した活動をしていることは間違いないだろう。最近、とあるインタビューで“全員に届けることを変に意識するのではなく、やりたいことを楽しくやるのが一番伝わる”といった主旨の発言も残している。やはり、音楽家としては理想的なスタンスを確立していると言ってもいいだろう。
TEXT:帆苅智之