『Never For Ever』/Kate Bush

『Never For Ever』/Kate Bush

ケイト・ブッシュの革新性が示された
傑作『魔物語』の色褪せない魅力

 今回は英国を代表する女性アーティスト、ケイト・ブッシュの1980年の作品、『Never For Ever (邦題:魔物語)』を取り上げてみます。70年代末、音楽界に現れた彼女は前例のないほどの独自の個性、表現力で立て続けに名作を世に送り、今なお音楽シーンに大きな影響を及ぼし、特にビョークやマドンナをはじめ90年代以降の女性アーティストの指針となるような足跡を残してきたと言えます。旺盛な70年代~80年代の活動を経て、90年代はほぼ引退とも言えるほど完全に音楽活動を停止していた彼女ですが、2005年に12年振りとなるアルバム『Aerial』をリリースして活動を再開。以降、マイペースでアルバム制作も続けている。独身時代の唯我独尊な音楽性も素晴らしいが、家庭を持ち、母となった現在の静謐で温かな音楽は以前にはない新たなケイトの音楽性が示されている。今なお輝きを失うことのない傑作『Never For Ever / 魔物語』を取り上げつつ、既成のミュージック・ビジネスに振り回されることなく音楽を続ける、彼女の歩みも振り返ってみたい。

デイブ・ギルモア(ピンク・フロイド)
の強力な後押しでデビュー

 ケイト・ブッシュの出現というのは唐突だった。前触れもなく現れたという感じではなかったか。前評判というのをほとんど聞いた覚えがなかったと思う。デビューは1977年ということなので、その頃の洋楽シーンを振り返ってみると、アメリカではスティーヴィー・ニックスとリンジー・バッキンガムというアメリカ人を迎えた新生フリートウッド・マックが大ヒットを連発していたし、ボズ・スキャッグスの『シルク・ディグリーズ』なんかもヒットしていた。何と言っても大きな記録を作ったのはイーグルスの『ホテル・カリフォルニア』だろうか。フリートウッド・マックと同じ英国組ながら、米国に拠点を移して、アメリカ流のサウンド指向を見せたピーター・フランプトンが『フランプトン・カムズ・アライヴ』というモンスターセールスを記録したライヴ盤を出したのもこの年だった。英国に目を向けると、こちらはアバ(出身はスウェーデンだが)がダントツの人気であった。その一方でベテラン組ではピンク・フロイドが傑作『アニマルズ』をリリースしてもいる。他にもベイ・シティ・ローラーズだとかELOだとか、この年に大活躍したアーティストは枚挙にいとまがない。だが、米英を通じてこの頃音楽界を揺るがしていたのは何と言ってもパンク/ニューウェイブの台頭ということになるだろうか。米国ではすでにラモーンズやパティ・スミス、テレヴィジョンといったバンドが活動していたが、後に音楽界に大きな成果を打ち立てる頭脳派、トーキング・ヘッズがこの年にデビューしている。英国ではもうこれに尽きるというべきか、セックス・ピストルズがデビュー盤をリリースして大波乱を巻き起こしていた。そして、早くもポストパンク勢と言うべき、XTCなんかもデビューしている。ケイト・ブッシュもそんな波乱の最中にある英国で、いきなりデビューを飾っているのだ。
 業界筋では評判は伝わっていたのだろうか。聞くところによると、デビューからさかのぼること2年ほど前、ケイトは兄のパディとバンドを結成してロンドン近郊の街で活動し、たまにライヴも行なうというふうだったらしい。少しプロフィールについて補足しておくと、ケイト・ブッシュは1958年にケント州ベックスリースという町で生まれている。父親のロバートは医師、母親のハンナは看護婦(ということなので、職場恋愛のパターンだろうか)、パディとジョンというふたりの兄がいる。一家はケイトが5歳の時に一度オーストラリアに移住するが、1年ほどで英国に戻るとケント州イースト・ウィッカム・ファームというところで生活するようになる。家は裕福で、兄たちも子供の頃から音楽をたしなみ、また母ハンナはアイリッシュの血をひき、看護婦の仕事をする以前はアイリッシュのダンサーだったそうだ。そんな環境にあって、ケイト自身も早くからピアノやヴァイオリンを習っていたという。よくアイルランドやスコットランドの家庭で見られるように、ケイトたちも暖炉の側でトラッドのジャムセッションをやっていたのだろうかと想像してみるが、デビュー後の音楽性にはそれほどトラッドの世界は感じさせないというか、巧みに封印していたのかもしれない。それでも次第に身体の中のアイリッシュの血は目覚め、アルバムにはどこかしらケルティックな空気があり、アルバム『The Dreaming』あたりからドーナル・ラニーやリアム・オ・メンリィ、デイヴィ・スピラーンといったアイリッシュ・ミュージックの重鎮らと付き合いを深めていく。だが、少女時代に彼女がもっぱら夢中になっていたのは、トラッドやフォークはもとより、ロック、ジャズといった音楽で、中学生ぐらいになると待ちきれないとばかりに兄たちとバンドを組み、早くもオリジナルの曲を書き始めるのだった。
 そうしてバンドのデモテープを手にレコード会社にも売り込みを始めてみるものの、ほとんどの会社は興味を示さず、結果は落胆の連続だったらしい。ところが、兄パディの友人のツテを頼ってデモテープがピンク・フロイドのギタリスト、デイブ・ギルモアの手に渡ることになり、ここから一気に運が開けてくる。ケイトの才能に驚いたギルモアは即座に彼女の元を訪ねると、自らケイトを伴って音楽関係者を回る。それだけでは足りず、すっかりケイトの才能に惚れ込んだギルモアはピンク・フロイドのレコーディングの現場にも彼女を伴い、スタジオにいたEMIのスタッフに彼女との契約を説いて回る。それがきっかけでケイトは遂に契約を結ぶことに成功するのだ。その時、ケイトはまだ16歳ぐらいだったらしく、早急なデビューは見合わせ、ピンク・フロイドばりに約2年の期間をかけてデモ・レコーディングが繰り返される。その費用のほとんどをギルモアが負担したとも言われている。そうして、正式なレコーディングが1977年の7月、8月に行なわれ、デビュー作が完成する。プロデュースを担当したのはデイブ・ギルモアとアンドリュー・パウエル(アラン・パーソンズ・プロジェクトのメンバー)。
 こういった情報も、ケイトのデビュー盤が届く頃になって知ったのであって、英国にとんでもない逸材が…というニュースは日本には伝わってきていなかった。今となっては奇跡のようなものだが、なんと彼女は1978年の5月にはプロモーションを兼ねて来日を果たしており、東京音楽祭に出場している(観ていない)。というわけなので、関係者にはケイト・ブッシュについての情報は伝わり始めていたのだろうか。そう言えば、一般には何の前評判も伝わっていないものの、名前は忘れたが、アンダーグラウンド系の音楽雑誌がケイト・ブッシュという新人をベタ褒めしており、そのプロデュースをデイブ・ギルモアが担当しているという記事を読んだ記憶がある。その雑誌には彼女がパントマイムをリンゼイ・ケンプに弟子入りして習っているということが記されていたようにも思う。リンゼイ・ケンプはデヴィッド・ボウイがやはりジギー・スターダスト時代にパントマイムを習っていたことで知られる人物である。折良く、ボウイはブライアン・イーノと組んで『Low』や『Heroes』といった、後に『Lodger』を加えてベルリン三部作と称されるコンセプト作をリリースし始めた頃で、彼の動向が音楽界の台風の目のように言われたりする頃だった。ボウイに縁のあるアーティストということで“これは要注意”と、新進気鋭のアーティストとして、ケイト・ブッシュの名前の脳味噌への刷り込みもきっと大きかったとみえる。私自身、彼女のデビュー作『The Kick Inside(邦題:天使と小悪魔)』('78)が店頭に並ぶや、すぐさま買ったものだった。
※まだライヴ活動も頻繁に行なわれていた70年代末には彼女のライヴ・パフォーマンスを収録した映像作品もリリースされ、その中ではパントマイム、ダンスの領域でも彼女がちょっとした才能を発揮しているのが見て取れる。現在でもDVDで発売されているものがあるようなので、興味がある方は探されてもいいかもしれない。
 今、これを書きながら、当時買ったアナログ盤を引っ張り出してきて久しぶりに眺めているのだが、ライナー・ノーツは立川直樹氏が担当されている。アルバム収録曲についてはキメ細かく紹介されているけれど、ケイト・ブッシュのプロフィール的なことはほとんど述べられていないところを見ると、やはりあまり情報はプレスからも提供されなかったのだろうか。

OKMusic編集部

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