独自のソウル音楽を追求した
初期ヴァン・モリソンの
傑作『ムーンダンス』
ゼムの結成と脱退
そして、64年に結成されたのがゼムである。強力なヴォーカリストであるモリソンを擁するR&Bバンドとして大きな注目を集め、デッカレコードと2年契約を結ぶことになる。この時モリソンは若干18歳で、契約書には父親の承認が必要であった。イギリスでゼムと同時期にデビューしているのが、アニマルズ、ローリング・ストーンズ、デイブ・クラーク・ファイブ、スモール・フェイセズ、そしてスティーブ・ウインウッドのいたスペンサー・デイヴィス・グループなどで、彼らの一部は70sロックを創りあげていく大きな原動力となった。
64年、ゼムは2枚目のシングルとなるブルースのカバー「ベイビー・プリーズ・ドント・ゴー」をリリースしたが、ヒットしたのはB面の「グロリア」のほうで、これはモリソンが18歳の時に書いたオリジナル曲。当時のライヴではこの曲の歌詞をアドリブで作って歌い、時には20分にも及ぶこともあったという。1曲が長いのはソロ活動になっても変わらず、ソロ初期の諸作でも8分〜11分ぐらいの曲が少なからず収録されている。また、「グロリア」は、ジミヘン、パティ・スミス、ジョー・ストラマー、デビッド・ボウイ、トム・ペティ、U2、AC/DCら、多くのロックアーティストにカバーされている。
続いて、モリソンの代表曲のひとつである「ヒア・カムズ・ザ・ナイト」がヒット(イギリス2位、アイルランド2位)し、ゼムは一躍人気グループとなる。この曲はパブロック的なテイストもあって、グループの先進性のようなものは感じるのだが、メンバーのまとまりや技術的な問題もあって、モリソンは嫌気がさしたのか66年にゼムを脱退する。
この頃のゼムのサウンドはストーンズと少し似たところがあり、ミック・ジャガーとモリソンは似たタイプのシンガーだと思う。ジャガーがブルースやR&Bをロック的な咀嚼によって自分のスタイルを作り上げていったのに対し、モリソンは同じくブルースとR&Bを自分の内にあるソウルミュージックのフィルターを通していくことで、そのスタイルを構築していった。
ブルーアイド・ソウルというより、
モリソンならではのソウル
このアルバムのバックを務めたのは、ニューヨーク界隈で活動するミュージシャンたちであった。主にフォークリバイバルのアーティストをサポートするスタジオミュージシャンと、アトランティック系(バングレコードの配給はアトランティック)ソウルのバックを務めるサポートミュージシャンの混合部隊であったから、ソウル・ミーツ・ポップス的なアレンジがなされ、そこにモリソンのソウルフルなヴォーカルが乗るという仕上がりであったが、このかたちが彼ならではのソウルサウンドを生み、70年代の諸作においては大なり小なりこのスタイルが継承されていく。少なくとも、67年の時点でオリジナルとも言えるソウルミュージックを確立したことは特筆に値する。
渡米後すぐにヒットに恵まれるなど、モリソンにとっては順風満帆のスタートを切ったが、その矢先バーンズが急逝、バングレコードでの活動はストップしてしまう。突然の苦境に立たされたモリソンであったが、これが彼にとってはプラスに働くことになるのだから人生は分からないものだ。