切ないメロディーと
儚げなヴォーカルが
リスナーの心を打つ
ジェイホークスの名作
『ハリウッド・タウン・ホール』
パンク、ニューウェイブ、テクノから
ペイズリー・アンダーグラウンドへ
80年代に入るとデジタル機器の普及が進み、ポピュラー音楽の主流はテクノやディスコ音楽へと変わっていくが、そんな時でも多くのガレージバンドはパンクロックの精神を忘れず、人力演奏でライヴをこなしオリジナル曲を作っていた。まず結果を出したのは、ジョージア州アセンズ出身のR.E.Mだろう。80年にインディーズデビューした後、バーズやヴェルヴェット・アンダーグラウンドの音楽を範として、パンク的な要素も併せ持っていたのである。デビューして間もなく大手レーベルへと移籍し、その後はCMJ(カレッジ・メディア・ジャーナル)の後押しもあり、若者たちの圧倒的な支持を集める。80年代は一般的(大人)な知名度と、ファン(若者)の知名度の差が大きくなった時代でもあって、最初のうちR.E.Mはビルボードなどメインストリームのチャートには登場しなかったが、CMJのチャートではいつも上位にいるという音楽産業の「ねじれ状態」を経験したグループだ。彼らと同じような立ち位置にいるアーティストたちのことを、いつしかオルタナティブロッカーと呼ぶようになる。R.E.Mと同じくアセンズ出身の人気グループとしては、B-52’sやラブ・トラクターなどがいる。
オルタナティブロックの動きは、アメリカの他の地域でも見られる。特によく知られているのは、L.Aのペイズリー・アンダーグラウンドと呼ばれる動きで、ロング・ライダース、グリーン・オン・レッド、ドリーム・シンジケート、レイン・パレードなどが知られている。中でもロング・ライダースは、綴りが“Long Ryders”で、バーズ(Byrds)への想いがひときわ強いグループだ。このグループのリーダーで音楽オタクでもあるシド・グリフィンは、1985年にグラム・パーソンズの伝記を出版しており、この本が当時オルタナティブフォークやオルタナティブカントリーロックのグループを激増させるきっかけのひとつになった。
セントルイスとミネアポリスの
ミュージックシーン
そして、ミネソタ州ミネアポリスには大スターのプリンスをはじめ、後に「Runaway Train」(‘93)の世界的ヒットで知られるソウル・アサイラム、ハニー・ドッグス、リプレイスメンツ、ギア・ダディーズなどがいて、ミネアポリスの中堅インディーズレーベルであるツイントーン(Twin/Tone)でソウル・アサイラムとレーベルメイトだったのが、今回の主人公ジェイホークスだ。
もうひとつ、ミネアポリスで忘れられないのが、インディーズレーベルのESD(East Side Digital)の存在である。ESDがリリースした多くのアルバムがオルタナカントリーの代表的なものであり、このレーベル抜きではオルタナカントリーは語れない。ゼイ・マイト・ビー・ジャイアンツ、ブラッド・オレンジズ、エリック・アンベルの諸作、シェイキン・アポッスルズ、ボトル・ロケッツ、ゴー・トゥ・ブレイジズ、シュラムス、シェリ・ナイトなど秀作は多い。81年に設立されたESDだが、21世紀に入る頃には経営難になり、それからは活動縮小を余儀なくされた。