開催直前!ストレイテナー・ホリエア
ツシ × 『RUSH BALL』プロデューサ
ー・力竹総明が対談ーー台風、コロナ
禍の苦難と葛藤を乗り越え、繋いだ2
5周年の想い

2023年8月26日(土)・27日(日)、9月2日(土)の3日間にわたって、大阪・泉大津フェニックスにて野外ロックイベント『RUSH BALL 2023 25years Goes On!』が開催。コロナ渦も歩みを止めることなく開催を続け、1999年の初開催から今年で25周年を迎える。そこで開催直前に大阪で、同じく結成25周年で今年で16回目の出演となるストレイテナーホリエアツシ(Vo.Gt.Ky)を迎えて、主催のコンサートプロモーター・GREENSの力竹総明と共に『RUSH BALL』のターニングポイントを振り返る対談を実施。ストレイテナー初出演の2003年の出会いから、台風が大阪を直撃した2011年、そしてコロナ禍の苦悩を乗り越えながらも音を鳴らし続けてきたそれぞれの想いに迫った。どんな時も諦めず、可能性を模索しながら未来へと繋いできた、2人の決意とドラマとはーー。いかにして25年続けて来ることができたのか、なぜこれからも挑戦を続けるのか、それぞれの想いをぜひ知ってほしい。
ストレイテナー初出演の2003年。シーンの新たな幕開けとなった2004年
ーーストレイテナーと力竹さんは、いつごろが初めましてになるのですか?
ホリエ:正直、覚えてないんですよね。
力竹:俺も覚えてない。
ホリエ:ストレイテナーの担当ではないので会うこともほとんどなくて。ふわっと力竹さんのことを知っているぐらいでしたね。
力竹:「すごいバンドがいる」という噂だけ聞いてたかな。『RUSH BALL』を立ち上げた藤本優子がストレイテナーをブッキングしたいという話を当時していて、俺たちは「オープニングアクトがいるらしいよ」ということで初めてちゃんと認識したのかな。
ホリエ:オープニングアクトがいるとか、会議とかでちゃんと知らされないんですか?(笑)。
力竹:当時は特に会議でも共有されてないね。ブッキングは藤本が全部やってたから勝手にバーっと決まっていた。藤本がアーティストのブッキングから移動や宿泊を決めていて、俺はステージとか運営を決めたりする役割分担でした。
ーーでは、ストレイテナーが『RUSH BALL』初出演となった2003年がおふたりの接点になるんですね。ストレイテナーとしては初めての夏フェス(野外ロックイベント)出演でしたが、当時のことは覚えてますか?
ホリエ:オープニングアクトで出させてもらって、すごくありがたくて嬉しかったんですけどいろいろ思うところもあったんですよね。というのも、当時はナカヤマ(Dr)との2人体制から日向(Ba)との3人体制でライブを始めた頃だったので、3人で出たかったんですね。だけど、オープニングアクトだったり機材の関係で、どうしても2人じゃないと出れないとなって……。そこでなんでだよ、と思った記憶があります(笑)。
力竹:めっちゃ思い出した! 
ホリエ:僕らも無駄に突っ張ってたんで、「やってやる」という気持ちと「ほんとは3人で出たかった」という気持ちがありました。 今となっては1番恩を感じているイベントなので、大感謝なんですけどね。あと覚えてるのは、この年にBUMP OF CHICKENが出てて。バンプって俺たちと同世代なんだけど、当時はなかなか背中が見えないぐらいすごく前を走ってる存在だったんですよ。下北沢のライブハウスでライブをやってアンケートを取ったりしていたら、ストレイテナーを初めて観た人やたまたま見に来てくれたお客さんが「好きなバンド」で、みんなバンプと書いてたぐらい。それで気になっていろいろ音源を聴いて、僕も好きになったりして、ようやく2003年の『RUSH BALL』で同じ日のステージに立てて、ようやく背中が見えた気がしてすごく感慨深かった。
力竹:そうだったんだ。当時はメガKobe(神戸ポートアイランド)で開催していた頃だね。
ーーストレイテナーは、2001年から2004年のメガKobeでの開催時代から出演している数少ないバンドですよね。
力竹:1999年が舞洲のスポーツアイランドで初開催で、PENPALSのハヤシくんがベースを折ったりして(笑)。難波マザーホールと心斎橋クラブクアトロでのライブハウス開催で4DAYS。俺はプレイベントで1日もらって、YOU THE ROCK★とかを呼んでヒップホップイベントを開催したり。2001年からは、神戸のポートアイランドの芝生エリア・メガKobeで音楽イベントの誘致があったりして、もう一度、野外で開催したい思いがあったから2004年までそこで野外開催することに。で、その年を最後にメガKobeの敷地が売れて使えなくなったので、2005年からは今の大阪・泉大津フェニックスに移って開催することに。
ホリエ:翌年には移って開催できたのがすごいですよね。
力竹:ギリギリだけどね。それで2004年を最後に『RUSH BALL』を立ち上げた藤本が辞める決心をして、2005年から俺が引き継いで泉大津フェニックスで初開催することに……。なるんだけど、初めての会場で手探りだし、ブッキングのノウハウが彼女にしかなかったから最初は一緒にやりながらといった感じで、ほんとになんとか開催できたような感じでした。
ーーホリエさんは、2004年はDJとしても出演されてますね。
力竹:今のATMCになる前のステージだね。告知も特にしない現場にいけばあるステージぐらいの感じで。
ホリエ:ふつうのテントだから狭いし暑いしで。僕のDJの時に、ASIAN KUNG-FU GENERATIONのゴッチ(後藤正文)がステージに遊びに来て、ブレイクダンスみたいなキレキレのダンスを踊ってくれたのが一番記憶に残ってます(笑)。当時はアジカンとストレイテナーが一番若手だったから、出番の後は一緒に飲んでひたすらはしゃいでて、俺たちにもそんな時代があったんだなぁと今では微笑ましく思ったり。
力竹:2004年は開催日の前後がすごい台風で、開催できないんじゃないかという大変さもあったね。風が強いから幕を外したり、ステージに吊るす予定だったスピーカーも置いて鳴らしたりと試行錯誤して、開催の日曜日は晴れたからお客さんも2万人ぐらい来てくれて。なんとかやりきったところで、夕方がthe band apart、日が暮れてACIDMANからのトリがパンプ。夕焼けのバンアパはヤバすぎて、たぶんあの日のライブを見た全員が覚えてるね。
ホリエ:そうでした、そうでした! あ、ちなみに前乗りで神戸にいたらホテルのエレベーターでバンアパと乗り合わせて、ドンキで大量のオナホールを買い占めてました(笑)。当時、ベースの原くんが連載していて、どれがいいか調査するためだったみたいです。
力竹:何しとん!(笑)。
ーーいい話からの裏話(笑)。振り返ると、(珍事件も含めて)毎年ドラマがありますね……。
力竹:そう思うと、2004年の神戸がなんとなく一時代の幕開けなのか熟成なのか、すごくキーポイントになる年だったと思います。今年の『RUSH BALL』に出るアジカンも、その2004年ぶりなんですよ。いろんなドラマが生まれたし、そこから繋がったり広がりが生まれた年でした。
震災、台風を経て生まれた「やめる理由より、やるための方法を探す」RUSH BALL精神

『RUSH BALL』プロデューサー・GREENS 力竹総明

ーーストレイテナーが初めて『RUSH BALL』のトリを飾った、2011年はいかがでしたか?
ホリエ:その年も大雨でしたよね。
力竹:POLYSICSで中断したね。
ホリエ:この年は、すごく個人的にもアツかったんです。仙台の『ARABAKI ROCK FEST.』が当初4月に開催予定だったけど、震災直後で8月に延期して開催された年で。いつもの『RUSH BALL』が行われている日程だったから『RUSH BALL』が時期をずらして開催したんですよね。
力竹:その時に初めましてやった、『ARABAKI』の主催・GIPの菅さんに電話して「今年、動くと聞いたんですけど、水臭いじゃないですか! やれることあったらなんでもするんで言って下さい」と話してね。
ホリエ:すると『RUSH BALL』が台風でギリギリまで開催できるかわからない状況になって、『ARABAKI』から「無事、開催してほしい!」といったメッセージもあって、すごくグッときた。『RUSH BALL』のスタッフもみんな、どうなるかわからないけど午前中で雨が止んだら排水して、地元の人たちから機械を借りたりしながら整備できたおかげで、イベントも昼からスタートできたというすごい年で……。みんな出演時間を削ってくれたおかげで、その最後にストレイテナーが出ることができたので、いつも以上にリレー感がすごかった。
力竹:前日までは雨風がすごくて無理じゃないかと話していたからね。入り口の水たまりがすごくて、飲食のトラックも浸水していたり、「もうこれは無理やな」と夜中の12時ぐらいに1回本部に帰って……。そこで音響、舞台、照明とコアスタッフと俺たちで話しあう中で、「中止する」「やめる」というのは簡単に言えるんだけど、やるためにはどうしたらいいやろうかとみんなで考えることにした。いろいろ、やれる方法を探してみて、それでもやめるべきだと思ったら言ってくれと話したら、みんなシーンとなって。「あれ、やれるんちゃうか?」と。もちろん安全面のこともあるから「やめる」という判断が妥当だと思ったけど、みんながバッと立ち上がって「やりますか!」つって。漫画みたいな展開になり、朝3時ぐらいから排水したり作業を初めて、6時にはビジョンが上がり、スピーカーが吊るされてステージがどんどんができた頃にはアーティストが続々と会場に到着して。みんな台風の被害を心配してくれていたけど「あれ、意外と普通だね」「あれ、やれるの!?」と言われて、「普通だねって、どんだけ大変やったか!」とか言いながら、お客さんもワーッといつもどおり楽しんでくれているのを見て、大変やったけど、あきらめずにやってよかったなと。この日の経験が、後のコロナ禍の2020年に繋がっていくんですよね。
ホリエ:そういえば、前々日くらいにうちのスタッフから「台風の影響で中止になるかもしれないから、大阪に向かうかどうかギリギリまで様子を見たい」と連絡があって、ブチギレたんですよ。「中止になったら行かなくていいじゃなくて、開催できてそこにいられないのが1番ダサいから。中止になろうがとにかく行くんだよ」と話して、それ以来バンドの方針になってます。
力竹:そういうことだよね。やれるとか、待ってくれてるとか、期待感があるから行く。ツアーもそうで、行かされたりやらされてることじゃないから。やれる可能性に賭けて方法を探すしかないんですよ。
ーー諦めないで、なんとか可能性を見つけて、やりきる方法を探したと。
力竹:そう。だけど昼頃に大雨が降ったので中断せざるをえず、雨が止んで再開できても、時間が押した分だけ曲を削ってくれないかとアーティストみんなに頭を下げたり。で、ストレイテナーのチームにもトリなんだけどいろんな条件をお願いして、なんとか本編を終えて最後に花火をあげることができた。だけど、今までやってきたようなトリをとらせてあげられなかった心残りがあったの。アンコールをやりたいとマネージャーから話があったんだけど、その日1日の流れだったりこの日を無事やりきる責任感とかもあって、俺たちもやってほしいけど「いいよ」とは言えなくて……それがずっと申し訳ないなと思ってた。だからこそ、その時の悔しさとやりきれなさをやっと返せる!と思って、2018年の20周年でストレイテナーに大トリを任せることに。そしたら、君たちアンコールをやらなかったよね(笑)。
ホリエ:みんなで出てきて、一緒に花火を見ましたね(笑)。
ーーメンバー全員でカーテンコールをして花火を見たんですよね。ステージにはACIDMAN、9mm Parabellum Bulletの菅原 卓郎、the band apartの荒井岳史と木暮栄一、そしてTHE BACK HORN松田晋二が駆け寄って肩を寄せ合う姿は印象的でした。(参照:2018年のライブレポートより https://spice.eplus.jp/articles/206091
力竹:それはそれで、ストレイテナーらしいなと思って。俺の中ではいろんな思いがあったけど(笑)。
ホリエ:2011年のトリの時は、僕たちもその日のリレーでバトンを受け取ったからにはもっとドラマチックなライブができたんじゃないかという心残りがあって……。その頃は演出とかあまり考えてなかったので。だから2018年は、アンコール無しで自分たちのライブをやりきって、花火を演出に使うんじゃなくて、ステージに残ってお客さんと一緒に見るっていう演出にしたんです(笑)。だけど、2011年の心残りがあったからこそ、ライブの演出のことを考えるようになったり、ひとつひとつのライブやフェスに何かを刻む意識を持つようになれたとも思ってます。
「25th Anniversary」ではなく、「25th Goes on」である
ホリエ:今まで、中止ってないですよね。
力竹:1回もなってないね。2011年の『RUSH BALL』をやり切れたことが最大の経験値になったから。 ミュージシャンもスタッフや仲間たちにも「やろうぜ!」と言ったら「できるじゃん」と可能性を見つけてくれたり、やり方を考えることができたかな。3.11の震災があってもフェスが開催されてライブが続いてきたように、俺たちのやってることは娯楽じゃないぞと、とにかく見せたい、成立させたい一心でコロナ禍にも取り組んでこれた。
ホリエ:全国でライブやフェスが止まっていたので、なんとかやり方を探さないと「このままずっとなくなってしまうかも」と思ってしまうような時期もありましたよね。僕たちにとっても初めての経験なので、なにかしないといけないと思いつつもどうすればいいかわからなくて。
力竹:2021年はさらに声出しができないとか、ライブやフェスに対する見られ方とか、さらに見えない何かに押しつぶされるような感じがあって。全国では中止せざるをえない状況もたくさんあったけど医師会とも行政ともしっかり対話をして、お互いの意思を通すんではなく折衷案をみつけながらやれる方法を考えて、なんとか開催する方法を探してきた。
ホリエ:僕らにとっては単なる娯楽じゃなくて仕事としてやってるし、そんな僕らの仕事を支えてくれようとしてるファンがいる。だから、状況を悪くしようとしてる人なんているわけがなくて、守っていこうとしているのにうまくいかないことが多かったですね。
力竹:うちの会社や市役所にも問い合わせが当時、たくさんあって。俺と年が近い人で「泉大津市民だけど、高齢のお母さんがいるので心配です」という声だったり、地元では1年の集大成でもある人生をかけただんじり祭りも中止にしたのに『RUSH BALL』はやるのかという声も。でもそういうお問合せがあれば、僕も名乗って相手にも名乗ってもらって、お互いの身の上話をしながら対話していけば、最終的には「俺たちは祭りをやめる決断をしたけど、君たちなりの決断をしてやるなら陰ながら応援する」と言ってくれて。そういうことがたくさんあったから、より頑張ろうと思えたし、顔を見せてお互いにちゃんと話をしたら分かり合えるということも学べたね。
ーー地元の方々や行政、そしてアーティストやファンたちと対話を続けてきたからこそ、中止することなく開催を続けてきて、去年には遂に観客からの声援やコール&レスポンスが起こる感動の場面も。どこよりも早く「声出し」が解禁された瞬間で、ホリエさんもライブで喜びを露にされていましたね。
力竹:実は去年も「声出しOK」とは言ってなくて、「コール&レスポンス」と言ってたんですよね。それでも声を出せるように工夫したかというと、ライブハウスでも野外でもミュージシャンはマスクを外してるのに、お客さんはみんなマスクをしてるのがおかしいやないかと個人的にずっと思っていて。お客さん目線で、一緒にマスクを外して同じ空間を共有できるようにしたかったんですよ。ステージで楽しそうに演奏して歌ってるのが羨ましくて、同じように楽しい時間を共有するために方法を探して、マスクをしてるんやったら声を出してもいいんじゃないかと。野外だからそもそも3密じゃないしね。そうしたら最初はみんな「大丈夫?」という感じだったけど、徐々にみんな声を出していってね。
ホリエ:そうだ、僕たちにとってコロナ禍を経て初めての出演だったんだ。「おぉおお!」と声が聞こえて、最初はびっくりしたんですよ。拍手だけのライブに慣れてきていたし、それでもやれるバンドではあったから。『RUSH BALL』で久しぶりにお客さんからの声を体験して、自分たちの今年のツアーで完全に戻った感じでしたね。それを経験して思ったのは、みんな馬鹿じゃないというか。ちゃんと自分で選んで、ライブに行くか行かないか、声を出すか出さないかを自分で決めてるんだなって。だからお客さんのことを信頼していいんだなと、改めて感じました。
ホリエ:そういう意味でも、最初を走ってますよね『RUSH BALL』。
力竹:というよりも、常に諦めたくなかった。2011年の『ARABAKI』からのメッセージを受けて台風を乗り越えて、ストレイテナーのトリのステージを十分に任せられなかった心残りとか、今日までいろいろな想いがあったからこそ、どんなに大変でも「やる必要がある人間」として生きたいなと。
ーーやれる方法を探す、それに尽きるわけですね。今年のタイトルの「25th Goes on」にも現れてるような。
力竹:これは「Anniversary」とは言わず、「やれるねん」という思いを込めて。
ホリエ:どこか捻くれてますよね。そこは僕たちと近いかも(笑)。
力竹:だれかを傷つけてまでもやろうとは思わないけど、最終的にハッピーになるなら、やれるだけのことをやりたいなと。
『RUSH BALL』は、アーティストの居場所をつくってくれている
ストレイテナー・ホリエアツシ
ーーずっと『RUSH BALL』を見てきたホリエさんの思う、『RUSH BALL』の変わらない魅力ってどこだと思いますか?
ホリエ:ステージがふたつある形でずっとやってると思うんですけど、出演してる側にとってもバンドのリレー感がすごくあるんですよね。すごくいいライブを見せられて、負けられないとか、自分たちのステージに臨むモチベーションや気持ち、テンションが変わるのはフェスにはそうそうないことで、『RUSH BALL』ならではの感覚かもしれないです。
ーー「フェス」というよりも「対バン」に近い感じですよね。
ホリエ:そうです! まさに対バンですよね。
力竹:そうね、対バンを望んでる。
ホリエ:フェスで同じ日に出てても対バンとは言えないじゃないですか。ステージが遠かったり、お互いのライブを見れなかったりもするし。だけど、なんだか『RUSH BALL』だと「対バンした」と言える気がするんですよね。ストレイテナー、2003年にゆらゆら帝国と対バンしてるからな!と言える気がする(笑)。
ーー『RUSH BALL』がずっとフェスではなく、野外ロックイベントと称しているのもそうですよね。お客さんにとっても、2つのステージを全部、続けて観ることもできるタイムテーブルだったり。
ホリエ:Dragon AshKjが到着してからずっと他のバンドのライブを見てるのを見かけると、初回から出てるだけあって『RUSH BALL』への愛があるなと感じたりもしますね。僕も『RUSH BALL』はATMCも含めて見たい!と思うバンドが出ていたり、いろいろライブも見たくなるし。打ち上げも出たい、と思える。
ーーそれはラインナップもそうだと思うんですけど、『RUSH BALL』に対して何か特別な想いをアーティストそれぞれが持っているからでしょうか?
ホリエ:今ではフェスがひとつのビジネスモデルになって、全国でいろいろ開催されてると思うんですね。フェスが日本で始まった頃からバンドをやってきた身からすると、いろいろと見てきてわかったのは「ここのフェスはハートがあるな」「つくってる人が見えるな」というのが伝わってくると、モチベーションが上がるんです。どのフェスも呼んでもらえるだけでありがたいし、ファンが見にきてくれていたり知らない人がこれを機に好きになってくれるチャンスだと思って手を抜くことはないんですけど、どうしても中にはそういうハートのないフェスもあって。その中では『RUSH BALL』はものすごくハートのあるフェスだし、苦労も知ってるから、より気持ちを乗せて演奏ができるので、ほかとは違うライブができてると思います。それはきっと他のアーティストもそうなんじゃないかな。
ーー『RUSH BALL』の対バン味のあるリレー感に、さらにドラマチックなライブが続くのはイベントを作っているスタッフとの共鳴もあるんですね。
ホリエ:そうですね。あと、フェスに対して望むのは、自分たちの居場所を作ってほしいということですかね。出演者の中でポツンと浮いてしまうと、僕たちのファンもフェスに足を運ばなくなるし。やっぱり繋がりのあるバンドがいたり、ファン同士が観に行きたいと思う対バンだったり。そう言う意味では、今年のラインナップは同世代がいて、仲の良い後輩とかっこいい先輩方もいて、僕たちにとっても居心地が良さそうで、安心できます。城野音くらいの規模なら、ものすごい若手と対バンするのは刺激になるけど、フェスで若手と若いお客さんの中にポツンと投げ込まれると、頑張りはするんですけどやっぱり気圧されちゃうんですよ(笑)。
力竹:お客さんとも距離ができるよね。
ホリエ:その点、『RUSH BALL』は日頃からライブをサポートしてくれているGREENSのみなさんがちゃんと僕たちの居場所を作ってくれているなと思うんです。若手と対バンを組んで繋がりを持たせてくれたり、そうするとそれぞれのファン同士で交流が生まれたり、知るキッカケができる。1年を通してそういった居場所を作ってきてくれた人たちがつくる『RUSH BALL』だからいつも安心できるし、今年はよりそのハートを感じますね。
力竹:もちろんそれもあるけど、それ以上に叱咤激励もあるからね。「やりさらせ!」みたいな(笑)。無駄なことも変な演出もしていない、今年も無骨なステージを用意したから。ドーンとやってほしい、その思いだけで今年もステージをつくってます。いろんな若手もいるなかで、ストレイテナーがドーンとやってくれるだろうなと。特に個人的には、ストレイテナーと同世代でいうと9月2日(土)の3日目に出演する、ACIDMANとか9mm Parabellum Bulletがいて、少し後輩のTHE ORAL CIGARETTESSUPER BEAVER04 Limited Sazabysたちは、アーティスト同士もファン同士も世代が違ってもお互いに刺さる、共感できるなにかがあるはずだと思ってるのでどうなるか楽しみなんですよね。
ーーラインナップでいうと、今年のATMCには初日に先ほどお話にあがったPOLYSICSやMO'SOME TONEBENDER、髭といった歴代の『RUSH BALL』を支えてきたアーティストも多数出演されますよね。
力竹:ATMCは、うちの現役世代や次世代を担うスタッフが中心にブッキングしてくれてますね。出てくれるんや!というバンドもたくさんいて、僕もびっくりしました。
ーーそれぞれのステージで、今年はどんなドラマが生まれるかとても楽しみです。最後に今年の20周年の頃との違い、そして25周年をどう捉えているかお聞かせください。
ホリエ:幸せなことに、僕たちは周りのスタッフもやめている人がほとんどいなくて一緒に25周年を迎えられています。今年の周年ツアーでは5年前に戻ったくらい、もしくはそれ以上のファンが来てくれた実感があって。コロナ禍で音楽との距離感が変わって、ライブに行くという習慣自体がなくなった人もいるだろうし、だけどたくさんのファンが待っていてくれて、新しく初めて来てくれたファンもいて、それがすごく嬉しくて、励みになっています。今年は、コロナ禍を経て迎えられた節目を自分たちで祝っていこうと、ただ続けるんじゃなくて、歴史に刻んでいこうと強く思うので、バンドも年を重ねながらも更新していきたいですね。
ーー力竹さんは25周年という節目をどう感じられていますか?
力竹:25周年とはいえ、コロナ禍の空白の3年があるので、5年前とは全然違うと思っていて。今日まで積み重ねてはきたけど、1年を通してみれば苦悩があるし、できない公演もあったり挫折もあるので、「25年連続してやってこれた」とはいえない。なので、「Anniversary」とは自分たちで言えないんです。だけど、「今日まで続けることはできた」「今年もまた続けることから始めよう」という思いを込めて「Goes on」として、今年もやりたいことをやるだけですね。なにより去年と違って、今年は空白の3年を乗り越えて、やっと全部が自由になった状態で楽しんでもらえる1日になるんですよね。お客さんの中には、20周年の時が高校生で今年20歳になる人もいるだろうし、「フェスに行ってみたいな」と思いながらも行けなかった人たちがようやく来てくれたり、去年は「大丈夫かな」と不安に思いながら楽しみきれなかった人もいると思うんです。だからこそ今年は、完全に声出しもできる全開放の『RUSH BALL』を思いっきり楽しんで欲しいですね。
ーー泉大津での『RUSH BALL』の先には、2018年以来となる台湾公演が3DAYSで決まっていますね。
力竹:今年の台湾公演をキッカケに、うまくいけば周年じゃなくても台湾公演ができるんじゃないかと思っていて。そのキッカケにもなればいいなと思っています。コロナ禍で閉じていた世界が繋がる、日本中も行き来できるようになって他県とまた繋がる。このふたつを同軸にやって「できるじゃん」とまた思えたら、これまでの空白が埋まるんじゃないかな。そういう意味を持つ、25年目にもできたらと思っています。そして大阪での公演は次の世代に任せて、世界での公演だったりもう少しベクトルを変えたこともできるぞ、と思える橋渡しをできれば引退しようと。それが25年かかったなと言われるのか、30年かかるのか。もしくは「まだやってるで」と言われながら、50年やってるかもしれないですけどね。いつか、「『RUSH BALL』ブラジル行くの?」と言われてるかも(笑)。
取材・文=大西健斗 撮影=渡邉一生
取材協力=鉄板野郎 裏参道店(大阪府大阪市北区曽根崎2-9-19)
https://teppanyarou.wixsite.com/home

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