【佐野直史】X JAPANとキャプテン翼
が好きだった青年はブラジルで「日本
人プロサッカー選手」先駆者として夢
を叶え、年商150億・店舗数100の飲食
店グループの頂点に変身。書道家の顔
を持つ多才社長に直撃インタビュー!
「人は楽しいところに集まる」と独自
な人間学と、サッカーへの恩返しから
始めた「U-12全国少年サッカー大会」
の全貌が明らかに~48才、本気でリア
ル大空翼を目指す!?

令和の風雲児として元プロサッカー選手の佐野直史(48)が注目されている。高校卒業後に単身ブラジルに渡り、5年間で4チームのプロサッカークラブと契約。肉体改造に成功して南米の屈強なフィジカルな選手とも互角に渡り歩いた。50m5秒8の快速を活かしミッドフィルダーとしてスター選手へと昇りつめた。当時の海外事情は日本人サッカー選手が珍しい時代、先駆者的な存在として注目される。ファビオ(ブラジル代表)やマルコス・パウロ(ベガルタ仙台で得点王)やファビーニョ(アルビレックス新潟)やセウソ(清水エスパルス)ともピッチで切磋琢磨した。小学校2年生のとき漫画「キャプテン翼」に憧れて世界を夢みた少年が夢をえた瞬間だった。しかし5年目後半で選手生命を奪う大ケガをして日本に帰国。第二の人生として飲食業をセカンドキャリアとして選択。天は二物を与えずというが、佐野は幼少期から培ったコミュニケーション術と、書道家の才能が開花して年商150億円、100店舗の巨大飲食チェーン店を成功させた。「伝串」開発者としても注目される佐野に今後の夢と展望をロングインタビューしてきた。その先には1000店舗展開、世界の架け橋、サッカーへの恩返しと奇才ぶりな発言が連発した。「人は楽しいところに集まる」まさに自ら具現化する “歩くエネルギースポット” の生き様を知ることができました。
X JAPANとキャプテン翼が好きだった青年が世界へ羽ばたいた】
――― 好きな音楽を教えてください
佐野 X JAPANです。中学生、高校生の時は聞きまくって、アルバム、ライブビデオは全て持っていました。好きになった理由は、中学の頃のXのメンバー(特にYOSHIKI)の生き様が格好よかったので、うたっている歌は歌詞の内容に関わらず全て好きになりました。今でもXを聞くと、モチベーションやテンションが上がるので、取り組みの成果が上がります。あとプロサッカー選手時代は試合前に聞いていました。今は移動中の車内でたまに聞いております。戦闘モードになります。
――― どんな幼少期・青年期を歩んだんでしょうか
佐野 祖父、祖母、父、母、妹の6人家族のなかで育ちました。非常に厳格な家庭で、風呂、食事は祖父から、食事は畳に正座をして一言も喋らず黙って食べることが決まりでした。男が台所へ入ることは許されない、テレビは日曜20時に放送されていた大河ドラマしか見てはいけなく、毎日20時に消灯が徹底した家でした。ただ、日曜日の大河ドラマを見る時だけは21時まで起きていることを許され毎週の楽しみでした。日中は、山や川に虫を取りに行ったり、庭で犬と遊んだり、庭師のおじさんの手伝いをしたり、庭の池で飼っていた錦鯉に餌をあげたり、書道をするのが楽しみでした。 祖父は金沢駅など歴史的建造物の設計を担う一流の建築家、祖母は諏訪の大庄屋の出身、父は会社経営者で父方の親戚は、会社役員、東京都庁、防衛省幹部、高校教員等であり、母は専業主婦であったが母方の親戚は全員が会社経営者という環境で、幼少期から高いマインドシップに接して育ちまして、その環境は人生に大きな影響を与えたと思います。父は会社を経営していて武闘家でもありました。日本空手協会の空手家で、佐野家の格言は「喧嘩でも何でもいいから1番になれ」「嘘はつくな」「弱い者には手を出すな」でした。学歴は、岐阜県各務原市立鵜沼第一小学校、岐阜県各務原市立鵜沼中学校、岐阜県立岐阜工業高等学校卒業です。高校時代は1991年・1993年にインターハイ、全国高等学校サッカー選手権大会に出場させていただきました。高校卒業してすぐに単身でブラジルにプロサッカー選手になるために単身留学しました。
▲写真:小学校時代
――― なぜブラジルだったのですか?
佐野 漫画「キャプテン翼」の影響ですね。小学校2年、8才でサッカーを始めました。その頃から海外でプロ選手を目指すためサッカークラブに所属し、サッカー漬けの毎日を送りまして。11才で岐阜県選抜に選ばれて数々の賞をもらい。中学時代はキャプテンとして県大会3位に導きまして。その途中で中学2年に岐阜選抜チームに選出されたとき、読売サッカークラブ(現在の東京ヴェルディ1969)と対戦してブラジル流サッカーに魅了されました。
▲写真:中学校大会で優勝(1990年)
――― 好きなサッカーの選手を教えてください
佐野 マラドーナです。小学生の頃、マラドーナのドリブルを見て真似して練習していました。マラドーナというと点取りプレイヤーのイメージが強いですが、器用なテクニックやアシストのプレイも好きで、プレイスタイルを学びましたね。僕の現役時代は50mを5秒88で走る俊足が売りで、個人技も優れていてドリブル突破からのラストパス(アシスト)が得意でした。得点よりアシストの方が多かったです。マラドーナ選手のおかげですね。
――― サッカーのポジションを教えてください
佐野 小学生は【フォワード】、中学生は【ミッドフィルダー】、高校は【ミッドフィルダー】です。中学入学の4月に、僕ともう1人が1年生からAチームに抜擢。2人とも小学校では県選抜で活躍していた2人です。小学生の時は、僕はフォワード、もう1人はミッドフィルダーでしたが、中学の先生が僕をミッドフィルダー、もう1人をフォワードで起用し、2人とも3年生に交じって活躍しました。僕はフォワードの気持ちが分かるのでパスを出しやすかったし、もう1人もミッドフィルダーの気持ちが分かるので、ミッドフィルダーがボールを出しやすい位置に動いて、連携がとても良く取れていました。後に、先生が僕ともう1人のポジションを間違えて起用したことを言っていましたが、その間違いのおかげで、今の僕があると思います。
▲写真:全国高校サッカー選手権出場(1993年)
▲写真:全国高校サッカー選手権・開会式(1993年)
【世界に挑戦した5年間のプロサッカー時代は栄光に輝いていたが・・・突如挫折と引退の現実が襲う】
――― プロサッカー選手時代の実績を教えてください
佐野 計5年間で4チームのブラジル国内のサッカークラブを渡り歩きました。当時海外で活躍する日本サッカー選手の先駆けだったと思います。簡単ですが5年間の実績です。
▲写真:ボトゥポランゲンセ所属時のブラジル新聞
▲写真:ボトゥポランゲンセ所属時のブラジル新聞
▽プロ1年目(1994年)
ブラジル・サンパウロ州のプロサッカークラブ「アメリカFC(América Futebol Clube)」に練習生として合流。言葉が分からないものの持ち前のサッカーセンスが評価され、1年を乗り切った。当時の体力測定は50m5秒8、1500m4分10秒だった。
▽プロ2年目(1995年)
プロ契約に至る。ポルトガル語、スペイン語は現地の人並みに話せるようになり、選手間のコミュニケーションも問題なく取れるようになった。持ち前の人懐っこい性格とコミュニケーション力が発揮され、チームをまとめる中心的存在になった。肉体改造を行うことでブラジル人のフィジカルと互角で張り合える体格となった。
▽プロ3年目(1996年)
ブラジル・サンパウロ州のプロサッカークラブ「A.A.ヴォトゥポランゲンセ」に移籍。年間シーズンを通してほぼ全試合に出場しました。
▽プロ4年目(1997年)
ブラジル・サンタカタリーナ州のプロサッカークラブ「ジョインヴィレEC」に移籍。マルコス・パウロ・ソウザ・リベイロ(2002年J2得点王)、ファビオ・エンリケ・タバレス(ブラジル代表選手)、ファビーニョ(2002年 アルビレックス新潟)らと共にプレイする。
▽プロ5年目(1998年)
ブラジル・サンパウロ州のプロサッカークラブ「アソシアソン・エスポルチーバ・イーリャソウテイラ」に移籍。ゲームメーカーとしてオファーされた。シーズン前半は首位独走したが、シーズン終了後に大怪我して日本に帰国。
▲写真:ブラジルサンパウロに到着した時の写真(1994年)
▲写真:ブラジルにわたって1年目(1994年)
▲写真:試合前の佐野直史
▲写真:イーリャソウテイラ所属(1998年)
▲写真:1ヵ月分のファンレター(1998年)
――― 5年目にしてスター選手に輝いていた佐野さんが、なぜ?サッカー引退に追い込まれたのですか
佐野 1998年に大ケガしまして引退しました。症状は、右足の親指が付け根(関節)から外れて、外れた骨が皮膚を破って外に突き出てしまいました。原因は、踏み込んだりジャンプしたりする時に、右足の親指の付け根に負担がかかり、痛みがあったものの、1年ほど痛み止めの筋肉注射を打ってプレイを続けていましたが、無理がたたって練習中に足が耐えられず、右足親指の付け根の骨が関節から外れて、皮膚の外につき出てしまいました。50mを5秒88で走る瞬発力に、関節が限界を越えてしまいました。リハビリを1年しましたが痛くて走れず引退となりました。日本帰国後は世界一のブラジルでやりきったので、違う世界で頑張ろうと飲食業の道を選びました。かなりの自信家というかサッカーしか知らなかったので、初めての就職面接は金髪、ジャージ姿でした。元サッカー選手の経歴を隠して受けた面接は、3人の面接官のうち2人は即不採用で、1人の面接官だけは口だけで終わらなそうな風格を感じ、「ひょっとして化けるかもしれない」と採用してくれたそうです。
▲写真:ジョインビレ所属。スタンドでたたずむ(1997年)
▲写真:ジョインビレ所属(1997年)
―― 著名なサッカー選手と試合したことや交流はあるのですか?
佐野 試合したことある選手でいえば、ブラジル時代にマルコス・パウロ(Joinvilleチームメイト、後にベガルタ仙台で得点王)やファビーニョ(Joinvilleチームメイト、後にアルビレックス新潟)やセウソ(votuporangaチームメイト、元清水エスパルスゴールキーパー)。交友関係でいえば、Jリーガーの梅田高志(1つ後輩、近所で毎朝一緒に高校に通っていました)やアナウンサーの大澤広樹(中学同級生、僕がサッカー部キャプテン、大澤が野球部キャプテン)。
▲写真:肉体改造に成功した佐野(1995年)
―― 最近、サッカー動画をYouTubeにあげられてますよね?
佐野 はい!20年ぶりに体を動かしてみました。「U-12全国少年サッカー大会」を昨年から開催しましたし、まだまだ48才だけどやれるぞ、と。子供たちに背中を見せたくて老体に鞭を打ちました(笑)
▽20年ぶりに小技してみた  https://www.youtube.com/shorts/6M9KyBd3xJM
▽20年ぶりにドリブルしてみた  https://www.youtube.com/shorts/UHaVdZgOrlc
▽リフティング1分間216回  https://www.youtube.com/watch?v=ks796fOdxN0
▽左右コーナー18回連続当て  https://www.youtube.com/watch?v=xC2FsrOH9EY
――― U-12全国少年サッカー大会を開催した理由を教えてもらえますか
佐野 サッカーに育てられた僕が、セカンドキャリアでサッカー界に貢献したいと考えました。今後は、子供達の育成、引退した選手の受け入れをしていきたい。引退した選手を受け入れ、彼らがビジネスを成功させてまたサッカー界に貢献する、そんな好循環を生み出したい。将来はJリーグのチームを買おうと思っています。少年の大会を開いた理由は、サッカーの楽しさやチームメイトの素晴らしさを知るためには、より多くの経験、体験をさせることだと考えたからです。サッカーに恩返ししたい思いからです。
松下幸之助稲盛和夫、高塚猛を尊敬しています。今度は僕が未来へ恩返しする番です】
――― 仕事、サッカー以外の特技・趣味を教えてください
佐野 英語とポルトガル語です。現役時代はペラペラでしたが、今はヒアリング専門かもです。何度か通訳を頼まれたときは専門用語が出てくると危なかったですね。書道は「長良川天神書道展・奨励賞」を受賞しました。書道家という顔も持ち、「新時代」のグラスの文字や、壁の文字、社旗など、全て自分で書いてます。休みの日は、全国各地に行って観光地以外の、日常の街、歴史的な場所に溶け込むことことや、色々なスーパーマーケットを巡ることが好きです。資格としては「小型船舶操縦士」「車両系建設機械運転技能講習」を持ってます。
――― 好きな言葉を教えてください
佐野 「人は楽しいところに集まる」です。単なる店づくりだけに留まらず、会社というチームを作る上でも大切な価値観だと思っております。
――― 影響を受けた人はいますか?
佐野 はい。3人います。松下幸之助さん、稲盛和夫さん、高塚猛さんです。特に松下幸之助「心をひらく」、稲盛和夫「生き方」「心を高める、経営を伸ばす」、高塚猛「ならば私が黒字にしよう」は読んでほしい名著です。
【書道家としてお客様にこめるメッセージとは】
――― 先程お話にでました書道家という一面についてお話をお聞かせください
佐野 僕は、壁にぶつかると書道をして乗り越えます。文字にする理由は、社員のためです。社員もきっと同じ壁にぶつかる。だから、その時に参考にしてほしい。その思いから書き始め、やがて店舗に貼るようになりました。 まだお店が2、3店舗しかない頃、壁に貼った文字をお客様が見て、これいいねって言ってくれたことから、それ以降全部のお店に貼るようになっていきました。
▲「成功も失敗もない。一時的な経験さ。」一喜一憂は後退でしかない。まっすぐ前を向いて前進する。
▲「人は人の役に立つために生まれてきた。」ゴールを見失ったときに考え方の指標としました。
▲「人生とは挑戦の繰り返しである。」先が見えない時に先が見えないことこそが正しいことであると考えました。
▲「友達は人生で発見した宝物」自分には何もないと思うことがどれほど贅沢なことなのか。既に宝物をいっぱい持っていると考えました。
▲「ありがとう。あなたがいたからみんなそう思ってる。」僕の周りにいる人がみんな自信を持ってくれるといいと思いました。
▲「地道な努力が夢の実現の最短距離」コツコツ、一歩一歩、これに勝るものはないということを確認しました
▲「自分は特別でも何でもない。みんな同じ生きているんだ。」調子に乗ったり、うぬぼれたり、そんなことしてたら、仲間を失うということを考えました。
▲「自分の無力さを知ったとき、初めて成長したんだなぁと感じた。」視野が広がった証拠、それは一段高い場所に上がったから視野が広がったんだと考えました。
▲「信念は持ち続けることが大切だ。」黙って持ち続ける、それが最強と考えました。
▲「カメでもウサギでも自分らしいければいい」人と比較すること自体が無意味だと考えました
▲「死ぬべきものが今生きている。」人間はいつか死ぬ。なのに、今生きている。こんなにありがたいこと、こんなチャンスは無いと考えました。
▲「人は楽しいところに集まる。」人は集めようとしなくても楽しければ勝手に集まってくると考えました。
▲「叶わないかもしれないが挑戦しないよりましだ。」叶ったときの自分より、叶えるために突き進んでいるときの自分の方が幸せだと考えました。
▲「みんな同じ生きているんだ。」自分だけ良ければいいなんて考えてはダメ、みんなで助け合っていかなければいけないと考えました。
▲「夢を語ろう」夢を語っている時が1番楽しく1番かっこよく見えると考えました
▲「本当の勝負はうまくいかなかった時だ」うまくいっているときは誰でも前進する、うまくいかなかった時こそ前進できる人が勝利すると考えました
▲「どうにかなるさ。」振り返ってみるとどうにもならなかったことが無いから今があると考えました。
▲「人を楽しませたきゃ自分が楽しもうよ。」人は自分の鏡だと考えました。
▲「納得するまでやったらいいじゃん」挑戦にルールは無いと考えました
▲「80年あっても今はもうないんだよ。だから今を本気で生きるんだ。」80年後も今日の繰り返しであると考えました
▲「いいじゃん今日は新時代に来てるんだから。」新時代に仕事の愚痴を言いに来たんじゃない。楽しみに来たんだと考えました。

▽プロフィール
佐野 直史(さの なおし)岐阜県各務原市生まれ、身長174cm、血液型AB型。経営者、書道アーティスト、ブラジルの元プロサッカー選手。引退後セカンドキャリアで年商150億、総店舗数100を越える飲食グループを築く。「伝串」開発者。株式会社ファッズ代表取締役社長、株式会社佐野ワールドフードプラン代表取締役社長。
【経歴】2006年、4年間で大手飲食グループの店舗を大きく拡大させた経験を基に愛知で独立。株式会社ファッズ ワールドフードプランを設立、飲食店1号店を愛知県高浜市に出店。2008年、株式会社ファッズに社名変更。2022年、飲食店100号店を出店。株式会社佐野ワールドフードプランを創業。「食を通して世に貢献し私たち社員そして私たちに関わる全ての人が幸せになることを目指す」を経営理念とした飲食店1000店舗を目指す。
【創業・プロデュース】「居酒屋 新時代」「酒屋 新時代44(よんよん)」「居酒屋 とんぺら屋」「タイ王国商務省認定レストラン スコンター」「韓国料理 ネスタル」「生串打ち 塩焼鳥 鳥ぶら」
【メディア出演】雑誌「飲食店経営」(表紙)、「リベラルタイム」ほか多数

▲写真:『キャプテン翼』になりたいと一心不乱にサッカーボールを追いかけている佐野直史The post 【佐野直史】X JAPANとキャプテン翼が好きだった青年はブラジルで「日本人プロサッカー選手」先駆者として夢を叶え、年商150億・店舗数100の飲食店グループの頂点に変身。書道家の顔を持つ多才社長に直撃インタビュー!「人は楽しいところに集まる」と独自な人間学と、サッカーへの恩返しから始めた「U-12全国少年サッカー大会」の全貌が明らかに~48才、本気でリアル大空翼を目指す!? first appeared on Myuu♪.

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