ポジティブなロックスピリッツと
高い文学性を同居させた
パティ・スミスのパンク期の名作
『ラジオ・エチオピア』
その才能において図抜けた存在に
1974年にはロバート・メイプルソープが費用を負担し、その頃恋人だったテレヴィジョンのトム・ヴァーラインが制作に協力してパティの初のシングルレコード(Hey Joe/Piss Factory)が発表される。その頃はまだ世間ではまるで報じられることはなかったが、ニューヨークではアンダーグラウンドのロックシーンが少ずつ脚光を浴び始め、ニューヨークにおけるパンクロックの総本山として知られるようになるクラブCBGBやMax's Kansas Cityといったライヴハウスで様々なバンドがギグを行なうようになっていた。パティたちもそこに含まれていたわけだが、様々な交友関係と詩人として認められるうち、彼女はすでにメジャーアーティストになっていたブルー・オイスター・カルトやトッド・ラングレンのアルバムに詩を提供したりしていた。時期的にはMax's Kansas Cityの常連だったニューヨーク・ドールズのアルバムをラングレンがプロデュースしたのもその頃のこと。パティはまさにこの周辺にいて、同じパンクバンドの中でもその才能において図抜けた存在になっていたわけだ。
ちなみに、この頃はまだパティ・スミスとそのバンドというものだったが、2作目となる『Radio Ethiopia (邦題:ラジオ・エチオピア)』('76)からは“Patti Smith Group”と明記され、パティもあくまでバンドのヴォーカリスト、ソング・ライターという役割になっている。
メンバーはデビュー時からレニー・ケイ(ギター)とジェイ・ディー・ドーハティ(ドラム)にリチャード・ソール(キーボード)、アイヴァン・クラール(ギター)というラインナップ。パティの一番の理解者とも言えるのがレニー・ケイなのだが、彼はサイドギタリストだけでなく、作曲やアレンジにも協力してバンドリーダーとしての役割をこなしている。元はロックライターとして雑誌の編集者の仕事をしていたという、そうしたエディター的な才能を発揮し、B級(失礼)ロックバンドばかりを集めたCD集『ナゲッツ』をディレクションしたことでも知られる。このうち、2014年現在もレコーディングやライヴでパティを支えているのはレニー・ケイとジェイ・ディー・ドーハティのみ、アイヴァン・クラールはパティ・スミス・グループ活動休止後はイギー・ポップと活動を共にしていたが、その後、出身地であるチェコに戻り、現在も祖国で暮らしているようだ(音楽活動を続けているかは不明)。リチャード・ソールもイギー・ポップのバンドに入っていたが、惜しいことに急性心不全により1990年に亡くなっている。
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