巨匠・大野雄二が語る、日本のポップ
スの発展と成熟「ジャズの影響力は、
実はものすごく大きい」

参考:大野雄二バンド、“伝説のバンド”コンセプトに「ルパンのテーマ」MVを公開

■「『擬似』なんだけど『ライブっぽいでしょ?』っていうのが大事」

――Yuji Ohno with Lupintic Fiveの最新作『UP↑』は、ライブ仕立ての非常に楽しい作品に仕上がっています。

大野:Yuji Ohno with Lupintic Five with Friendsという名義でもアルバムを出しているので、わかりにくいかもしれないけど、Yuji Ohno with Lupintic Fiveの6人だけで演奏するアルバムとしては5作目なんです。それで、1作目が『New Flight』。ものすごく当たり前のタイトルです(笑)。2作目が『What's Going On』。3作目が『Feelin' Good』。4作目が『Let's Dance』。だからそのまま行くともう『UP↑』しかないという感じでした。

――どんどん高まってますね(笑)。アナウンサーの土井敏之さんがMCで演奏を盛り上げていますが、彼は前作に続いての登場ですね。

大野:土井さんは前作で『A.T.M.』という曲で1曲やってもらって、一種の和製ラップのような雰囲気で面白かったんですよ。あとはライブっぽくしようと思っていたので、そうすると土井さんにやってもらった方がいいな、と。

――TIGERさんを招いた『MANHATTAN JOKE』は、1985年に河合奈保子さんが歌った名曲で、ルパンファンのみならず、歌謡曲ファンの間でも長く聴かれています。もともとAORやフュージョン的なテイストを持った曲ですが、今回のアレンジについてはいかがですか。

大野:1993年に声優の山田康雄さんと作ったアルバム『ルパン三世・Tokyo Transit〜featuring YASUO YAMADA』でやったバージョンなんです。もちろん細かいところは変えてますけど、ポップな4ビートで「こういう感じ」というところは同じ。河合奈保子が歌ってるときはシンセがメインで打ち込み、それにブラスや弦も入ってるけど、これはあくまでLupintic Fiveのアレンジなので、僕がシンセをいっぱい弾いています。Lupintic Five名義の決まりごとは、演奏にほかの人を入れないというだけなので、今回はライブで演奏できる形じゃなくてもいいやと割り切って、ダビングはけっこうやっています(笑)。ブラスもたまに4管(4人編成)にしたりしているんですけど、「うちのメンバーがダビングしてるんだからいいか」と。

——ライブでの再現性にはあまりこだわらなかったと。

大野:再現するのが大事っていうこともあるけど、あえて外すのもけっこう面白いです。そのあたりが、僕がCM音楽などを長年手がけて培ってきたノウハウというか、「無視するところは無視しちゃえばいい」というところ。その時に、どのくらい無視していいかをチョイスするのがセンスです。

——なるほど、ちょうどいいバランスがあるわけですね。

大野:具体的にいうと、聴いてくれた人が「すげえダビングしてるな」と思わない程度なら、やってしまっても構わない。ちょっとお化粧が濃いくらいです。「擬似」なんだけど「ライブっぽいでしょ?」っていうのが大事で、「やっぱりちょっとはトッピングが入っていた方が食べるときおいしいよね」というときに、それを我慢する必要はない。ポピュラーミュージックはそういうセンスが大事なんです。

■「ちゃんとポップスを聴くと、素晴らしいドミソはすごいんだ、ということに気付いた」

——そのあたりは、日本のポピュラーミュージックの礎を築かれた一人である大野さんならではのご発言だと思います。もともと1960年代中盤にジャズのピアノ奏者として出発された大野さんがポップスの魅力に開眼されるプロセスとは、どんなものだったのでしょうか。

大野:僕が音楽を志してから最初の頃の5年間くらいは、ポップスはつまらないものだと思っていて、ビートルズさえも聴かなかったです。ジャズというのはたしかに勉強すると難しい音楽で、気が狂ったような状態で5年はやらないとうまくなりません。僕の場合は高校1年の秋から大学卒業までの5年半、ジャズに没頭していて、大学4年の頃にはプロとしてやっていました。

——その後、数々のジャズグループへの参加を経て、1970年前後からポピュラーミュージックも含めた作曲活動を展開されます。そのきっかけとは?

大野:その頃の日本のジャズはまだ未熟だったので、アメリカに追いつけ追い越せという文化でした。いっぽうで当時のアメリカのジャズは層が非常に厚く、ジャイアントたちがたくさんいました。そして、あの頃は戦争前と違って、リアルタイムですぐに聴くことができたわけです。それを聴いた時に日本の人たちは一番新しい音楽を求めすぎちゃって、評論家からプレイヤー、お客さんまで、「新しいことをやっている人がすごいんだ」と思っちゃった。アメリカでは、ジョン・コルトレーンたちが新しいことをやって、彼らに追い抜かれていく人たちもいるわけだけど、本当はその人達だってすごいんです。つまり、新しいものが生まれる背景には、昔ながらの素晴らしい演奏をしている人たちがいて、そのせめぎ合いがあるからこそすごいのですが、日本の場合は急に新しいところにいった。僕から見ると「それは違うな」という感覚がどんどん強くなったんです。はっきりと意識できるようになったのは、アメリカのプレイヤーが来日公演をするようになった頃、コンサートの終了後にお店に遊びにきた彼らと一緒に演奏する機会があったから。

——大野さんの著作では、1968年に六本木の「マックスホール」という店で、サム・ジョーンズやボビー・ダーハムらと共に演奏したエピソードが紹介されていますね。

大野:彼らは伝統的なこともすべてできて、その上で新しいことをやっている。それに比べて、日本の人たちはベーシックなところがあんまりうまくできない。それで僕は「これじゃダメだ」と思って、どんどん後ろに下がって勉強していったら「あいつはマンネリだ」「ちょっと前までは尖っていたのにそうじゃなくなった」という感じに受け止められた。だけど、向こうの人には「お前はすごくいい」と言われて、「昔にさかのぼってまともなことを勉強していることをわかってくれているんだな」と思いました。日本の人たちはそのことをいまいちわかっていなくて、ピアニストだったら当時一番新しいハービー・ハンコックとかマッコイ・タイナーとかのプレイをそのままやっているような人が「すごい」、ビーバップとかハード・バップのピアノを弾いている人は「古い」ということになっていた。それで「こんな世界で音楽やっていたくないな」という気持ちになって、段々離れていきました。

——そんなときに、CMのお仕事の誘いがあったと?

大野:本当に偶然にね。すると、今度は今まで馬鹿にしていた音楽を聴かなきゃいけない。しかし、ちゃんとポップスを聴くと、素晴らしいドミソはすごいんだ、ということに気付いたんです。それまでは複雑な和音が最高だと思っていたんだけどね。つまり、音楽的に難しくてもつまらない音楽はつまらないし、易しいことをやっていてもすごい音楽はすごいんだということを、仕事として思い知らされた。それで死ぬほどポップスを聴くようになったんです。

■「ギャンブル&ハフのセンスに驚いた」

——当時、ポップスですごいと思った音楽はどんなものでしたか?

大野:例えば、サンタナとか。ジャズをやっていた頃は、なぜこれを素直に受け止めなかったんだろうと思いましたね。ビートルズを聴いたときは、簡単なコードしか使わなくても、工夫して使うとこういう風になるんだ、と関心しました。それから、ドリス・デイだとかエルヴィス・プレスリーのようなアメリカのポピュラーは、良き時代のジャズの影響を受けていて好きでしたね。アメリカ以外では、フランスやイタリア、スペインのポップスも聴きましたし、イスラエル、アフリカ、ブラジルまで、手に入るものは何でも聴きました。70年代のはじめの頃ですね。

——ちょうどその頃はソウル・ミュージックで言えば、マーヴィン・ゲイのように新しいサウンドに挑戦するミュージシャンが活躍し始めた頃でした。

大野:マーヴィン・ゲイも、サウンドで言うとジャズに影響を受けているんです。その影響の受け方がポップで、それは僕らのようなジャズをやっている人間には受けつけられなくて、シャットアウトしちゃうわけ。でも、自分が変わったおかげで、「俺もこういうのすぐできそうだよ」となるんです。受け入れさえすればサウンド的にはすぐわかるから。一番勉強になったのはリズムです。リズムセクション、ドラムとかベースのパターンの絡みとかね。ジャズの場合、同じような一定のリズムをずっとループする、ということを嫌っていて、どんどんぶっ壊していきたいんです。でもソウル・ミュージックは踊ることが基本だから、それがなくなっちゃったら意味がない。それで、ループをつまらなくしないために、ドラムスのバスドラムに対してベースがどう合わせるかとか、韻を踏んだりとか、ラテンパーカッションが入ってくるとか、いろいろな工夫があるんです。単純なことでもこんなに組み合わせのパターンがあるとすごい、ということを勉強しました。

——一番関心を惹かれたソウル・ミュージックはどんなものですか?

大野:普通にマーヴィン・ゲイ、スティービー・ワンダーあたり、途中からフィリー・ソウルですね。これはもうギャンブル&ハフのセンスに驚きましたよ。ただ、彼らのように洗練されたものばかりじゃなくて、ミリー・ジャクソンのような南部の土着っぽいもの、ただわめいちゃう、みたいなものも嫌いじゃない。土地によって違うんだな、と思いながら聴いてました。

——非常に幅広くお聴きになったのですね。

大野:それはCMをやっていたからです。一番多い時で年間200本近くやっていました。僕は、小林亜星さんのようにジングルっぽいものやそれに歌をつけてわかりやすくするというより、ちょっと難しいものを頼まれることが多かったんです。その頃から企業CM的なものが増えてきて、一種の劇伴的な要素というか、「うちの会社は損得考えずに良いことやってますよ」というようなものね(笑)。そういうのはけっこう音をつけるのが難しいんですよ。「マルハのちくわ」と歌っているだけじゃダメで、僕はそういう仕事の方がやりたかったんだけど、そっちはあんまり来なかった。専門色が出る、難しめ、かっこいい感じのCMが多かったですね。

■「音楽全体が劇的に変わったのは60年代から80年代の途中までじゃないかな」

——いろいろなジャンルへの興味は今も継続してお持ちですか?

大野:最近ちょっと不勉強ですね。昔のものを聴いちゃいます。ジャズがそうなんだけれど、20年、30年とやり尽くしたところがある。だから最近のジャズの雑誌を読むとわかるけど、新しい人は取り上げないで、亡くなった人をもう一度違う角度で研究する、というようなものが多いですね。

——音楽には無限に新しいパターンがあるという見方もある一方、各ジャンルでできることは有限であるという考え方もありますね。大野さんはどうお考えですか。

大野:ファッションと同じで繰り返すんじゃないでしょうか。何十年か経つと、あるジャンルの要素をうまく取り出して、それを核にしていながら、その間に変わっていったものやそのアーティストの個性を盛り込んだ音楽がまた流行する。それを聴くのは、そのジャンルの音楽を一生懸命聴いていた世代じゃなくなっているから、新しく聴こえる、という風に。だからある意味で、音楽全体が劇的に変わったのは60年代から80年代の途中までじゃないかな。

 例えばプレスリーは今考えればそれほどロックな人じゃなくて、ポピュラーソングの人です。でも形態としてロックのスタイルを取りました。あの人はどちらかというと黒人音楽派です。ナッシュビルとか、いわゆるカントリー・ウェスタンみたいなものからロカビリーとかヒルビリーが出てきて、白人でもリズム&ブルースが好き、というような流れからロックスターになりました。だからヒットした曲は、ロックというよりスタンダードナンバーという感じの曲です。完璧にロックなバンドとして出てきたのがやっぱりビートルズで、ここでひとつ変わりました。ロックといってもただうるさいだけじゃなくて、知的なこともできるバンドで、ローリング・ストーンズはその対として、ビートルズがいたからこそ際立った面があると思います。アメリカの黒人達は黒人達で、ソウル・ミュージックを生み出してスティービー・ワンダーが出てきてモータウンがあって、そうするとそれに対をなすように、例えばフィラデルフィアが出てきたりするわけです。で、やっぱりその中で大きく音楽を変えたのはEarth Wind & Fireですね。でもそのEarth Wind & Fireも、一時代を築いたけれど廃れちゃった。ただ、アメリカがすごいのは、そういう興亡がいろいろあっても、それぞれがそこそこ生き抜いてはいるんです。

——70年代から80年代にかけて数多くの作品を世に送った大野さんも、新しいものを作っていこうという気概を持っておられたのでは。

大野:そうですね。いち早くミキサーもできる作曲家になりたかったです。70年代の途中から、機械のこと、ある楽器にどうエフェクターを掛けるか、というようなことが分からないアレンジャーは置いていかれました。機材や録音の仕方が、最終的に音を作るときにすごく重要になってきたんです。昔は「技師」という感じでミキサーは聖域で、作曲家が何か言うと怒られたものでしたが、それが段々口出しできるようになっていきました。

 CMの世界でも作曲家の役割は変化していきました。終戦後に民放ができて、初めてCMというものができました。それもラジオからです。それまではNHKしかなかったからCMという考え方がなくて、広告といったら電柱や雑誌や映画館のニュースの合間にやるものだった。それがまずラジオCMからできました。ただ、そういう専門家は誰一人いなかったから、器用な人たちがやっていたわけです。その第一世代が「CMの父」三木鶏郎さんとかです。そこにいたいずみたくさんなどがだんだん分かれて自分で会社を作っていきました。いずみたくさんは第二期とか第一期の亜流という世代で、僕は第三期くらいになります。その頃になると多少CMのやり方はわかってきているけど、完璧なノウハウというのはない。CM専門の監督というのもいないから、映画監督でちょっと仕事がない人なんかがやる。だから、CM音楽を作るときの打ち合せというと「明るく楽しく」とかで終わっちゃうんです。自由だったのである種のやり甲斐はあったんだけれど、時が進むに連れて、だんだんサンプルを渡されるようになってきました。要するに広告主に「こういう風に作りますから」と言ってあるので、そういうものを作れ、要するに盗作しろ、ということです。広告主の要求とズレないようにサンプルを渡すようになっていったんですね。だから広告代理店の中で、制作よりも営業の方が強くなっていきました。それでだんだんつまらなくなって、少し離れていったんです。

——それは、大野さんが演奏活動を再開された時期と重なっていますか?

大野:だからそうした、というわけじゃないですが、重なっていますね。昔の仲間に「年に1回でもいいから一緒にやってくれ」という人がいて、ついやっちゃったんですよ。作曲家をしていた頃は、一度もお客さんの前では弾いたことはなくて、観客のいないところで音楽を作ってきました。それで、久しぶりにお客さんの前で演奏したら「楽しいな」と思っちゃった。

——20年弱くらいブランクがあったことになりますね。作曲家としての活躍を経て、再び観客を前にジャズミュージシャンとして活動するのは、以前とはまた少し違う感覚でしたか。

大野:作曲家をやってプロデュースもやって、いろいろと俯瞰してものを見るようになった上でプレイヤーに戻っているので、ジャズ・ピアニストとして初めてやった頃の感覚にはもう戻れません。若い頃は、「やりたいことをやってるんだから、お客さんは勝手に聴けば良い」なんて思っていましたが、いまはやっぱりお客さんが楽しめるようにと考えます。でも、だからといって媚びちゃダメなんです。これ以上易しいことをやってウケようと思うなら、ジャズなんてやってる意味がない。たとえば、ここに川があるとして、僕はこっちの岸にいます。お客さんは向こうの岸にいる。そこで、僕は川を渡ってお客さんの岸に行くことはしないんですが、そっちの岸のことはよく見ていて、「こっちに来たい人はおいでよ。こっちも楽しいよ」と手を振ることはします。それ以上はやらない。生意気なことを言うと、僕らの音楽を聴いて理屈抜きに楽しくて、ジャズを好きになったら、僕らを通り越してもっとマニアックなところに行ってくれればいいんです。自分の経験で言うと、それで難しいものを聴いたりしても、けっこうまた戻ってきます。聴き方の深さが違うと、こっちがどれくらい深いかもわかるものです。

■「まともなジャズの影響力というのは、実はものすごく大きい」

——大野さんのお仕事は90年代後半くらいからクラブDJやミュージシャンからも評価され、例えば中納良恵さんのEGO-WEAPPIN'も広い意味で影響を受けていると思います。そうした新しい世代のジャズへの取り組み方をどう見ていますか?

大野:例えばルパンのサンプリングものでは、あまりにも気負いすぎて何やってるんだかわからないものもあるけれど(笑)、ちゃんとしたものはある意味でインパクトを出してくれるので、僕らがやっているだけよりも有効にお客さんに広めてもらえている部分があります。みんなやっぱり、どこかジャズの要素がないとかっこよくならない、ということを知っているんだよね。

——ジャズの要素が入ることでポップスはどう変わりますか。

大野:例えば3コードだけじゃなくて、難しいコードをうまいことちょっと入れるとか、そういうところですね。ちょっとわかっている人だと「俺の感覚ではこの音が入るとカッコいいんだけど、どう(弦を)押さえたらいいのかわからないな」という憧れがあるんじゃないかな。

——ジャズには、ポップスの枠をちょっと超える効果があると。

大野:まともなジャズの影響力というのは、実はものすごく大きいんです。その代わり、アーティスト個人が突然有名になる、ということにはなりにくい。インパクトがそこまで強くないんです。インパクトが強い人は一言で言うと、センスはなかろうとバカテクの人です。これはサーカスと一緒。いち早く「すげー」と思わせるのは何かとんでもないことをやる人なんだけど、僕から言わせると「それが音楽的に何の意味があるんだ?」というものでしかありません。そういうものはやっぱり聴いたらビックリするんだけど、長続きするかというとすぐに飽きます。僕がよく言うのは、「白いご飯や水や空気が一番強い」ということで、そういうものはインパクトは弱いけれど、なくなったら大変なことになる。

——Yuji Ohno with Lupintic Fiveのアレンジを手がける際は、どんなことを心がけていますか。

大野:Lupintic Fiveは6人ですから、だいたい音の想像はつきます。「こう書いたらこいつはどうプレイするかな」、ということもある程度わかります。その人をうまく使いこなすために、放し飼い的に書くか、あるいはかなり縛りを入れて書いたらどうなるか、ということは要素がいっぱいあって楽しいです。管が2管のバンドだったら、ユニゾンか2音のハーモニーしかないので、いろいろ考える場合は逆に難しいんです。人数が増えたら増えたで、ストリングスがいてブラスがいて、となると、これはこれで楽しみが別になっていきます。書いても想像しきれないところもあるので、それはそれで楽しみです。特にLupintic Fiveは、和泉聡志くんというギターが完璧に別の世界の人で、もともとロック畑だから、アレンジを書いていても想像がつかなくて楽しいです。他のひとはだいたいジャズの括りだから、だいたいどんなブレがあっても予想の範囲内なんだけれども、でも和泉くんはわからない。

——大野さんからしても予想外、と?

大野:あいつが面白いのは、ロックなんだけどやっていくうちに段々ロックがつまらなくなってきて、ジャズや難しい音楽に傾倒してきた奴だから、こっちにすごく興味があるわけ。かといって、あいつがジャズっぽくやったら「あんたがいる意味がないよ」と俺が怒るわけ。ジャズギターの上手い人は他にいるから、ジャズっぽくやるんだったらそいつを使えばいい(笑)。

——和泉さんの存在がこのバンドの大きな特徴になっているということですね。

大野:ものすごく特徴になっています。今回は『UP↑』というアルバムですが、和泉くんとトランペットの松島啓之くんが一番わかりやすくアップでしょうね(笑)。Lupintic Fiveの場合は、僕のピアノはどちらかというとあんまり目立たない感じです。

――大野さんはたくさんの作品を手がけていらっしゃいますが、その中でもルパン三世がライフワークになっています。やはりご自身にとっても特別な作品ですか?

大野:はい。モンキーさんが作ったあの人数といい、絶妙な関係性といい、よくこの登場人物を作ったな、という感じがします。ルパンは生い立ちとか行動がよくわからない存在だから、何をやってもOKで「世界を股にかける」ということも簡単にできてしまう。だから、僕が世界を股にかけて聴いて蓄積してきた音楽のノウハウが存分に使えるわけです。基本はジャズなんだけど、ボサからソウル・ミュージックから、イスラエルやアフリカ音楽やスペインポップまで聴いてきたことが全部活かせるんです。例えばルパンの劇伴とかが一番そうですけど、他ではそうはいきません。その感覚で日本の普通のドラマの劇伴を書いても合わないんです。フォークソングの四畳半的なものが入ってこないと日本のドラマでは合いません。だから意識してそういう要素を入れて書いてるんだけど、ルパンの場合は四畳半フォークソングを入れる必要があんまりないんです。唯一あったのは、あまりにも五ェ門がずっと平泉にいる話だったから(笑)。そのときには生ギターを多く使いましたけど、普通はどちらかというとエレキギターの方が合うようなところがあります。だからやりやすいんだよね。あとは、ルパンの性格が、何十年もやっていたら自分に似てきた、というのはあるかもしれない(笑)。俺があっちに似たのかもしれないけどね。音楽でも文章でも、面白い、オシャレ、間抜け、みたいなところが上手いことミックスしていないと嫌なんです。だからアルバムでも、全てオシャレにまとめるのもたまにはいいんですけど、そのまま突っ走るみたいなのは好きじゃない。

——そういう意味でも(ルパン役の)山田さんも含めてすごく相性が良いんですね。

大野:山田さんとは本当に気が合いましたね。だからきっと、あの人もルパンが乗り移っちゃったんだよ(笑)。(取材=神谷弘一/構成=松田広宣)

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