過去公演とはカラーの異なる、猿之助
と愉快な仲間たち『ナミダドロップス
』が閉幕 東京公演のオフィシャル千
穐楽レポートが公開

猿之助と愉快な仲間たちの第3回公演『ナミダドロップス』が、2023年3月8日(水)~14日(火)の東京公演(神田明神ホール)、19日(日)の京都公演(京都芸術座劇場春秋座)を経て、3月21日(火・祝)に愛知・岡崎市民会館あおいホールで大千穐楽を迎えた。この度、東京公演のオフィシャル千穐楽レポートが届いたので、紹介する。
「猿之助と愉快な仲間たち」とは猿之助のプロデュースによる演劇プロジェクト。「コロナ禍で活躍の機会を失った若手俳優に活躍の場を」とのコンセプトで、2021年に旗上げされた。そこに集まったのは、歌舞伎、ストレートプレイ、ミュージカル、新国劇、大衆演劇、アクション、ダンスなど多様なバックボーンをもつ俳優たち。『ナミダドロップス』にも、猿之助、松雪泰子、下村青、嘉島典俊、石橋正次ほか、愉快な仲間たちが出演した。
■千穐楽レポート
会場の神田明神ホールは、神田明神の境内に造られ、2018年12月にオープンした施設だ。大きなガラス窓に面したロビーは光に溢れ、壁には本公演の応援企画として用意された祝い熨斗やドロップ型の絵馬が飾られている。来場者が御贔屓に向けて綴ったメッセージはどれも温かく、まもなく始まる物語への期待を高めた。
イントロダクションは鐘の音から。舞台に、黒衣の人影がいくつも現れる。
「むかし、泣き虫かみさまが、朝やけ見て泣いて」
「夕やけ見て泣いて」
耳馴染みのあるフレーズを渡り台詞に、一人ひとりが言葉を繋ぐ。そして口々に「ポロン。ポロン。ポロン」と語る落涙、あるいは雨の音が、ステージに広がる。酸っぱい檸檬も甘露を注げばレモネードに。そんなメッセージを深く印象づけ、たくさんのナミダが零れ落ちる“にがい世界”の物語がはじまった。
舞台は、戦乱続きの日本らしき国。首都には鐘楼堂があり、頂上に大きな鐘がある。そこの鐘つき人として、清日古(猿之助)は20年間生きてきた。鐘楼堂の主・帯刀(下村)の庇護のもとで、誰に会うこともなく鐘を鳴らし、祈り、学び、食べて寝る。
鶴屋南北『金幣猿島郡』を現代劇に。そんな猿之助のアイデアから『ナミダドロップス』は生まれた。市川青虎の演出により、藤倉梓が『金幣~』にヴィクトル・ユーゴ―の小説『ノートルダム・ド・パリ』を融合させて脚本を書き下ろした。清日古は、『ノートルダム~』の背蟲男・カジモドと『金幣~』の清姫を想起させるキャラクターだ。はじめの登場で、清日古は自分自身の人生を語り聞かせた。その声や眼差しに垣間見える知性は、20年の孤独を想像させた。次第に複雑な内面が明らかになる。
帯刀は、聖職者であり権力者でもある。警備隊長の陽光(大知)や琉(下川真矢)、櫂(市瀬秀和)、篁(石橋正高)たち警備兵を率いて民衆に圧政を強いている。この日は、ひとときの息抜きに、街でフェスが許可された。鐘楼堂前の広場に人が集まり、ところてん屋の惣(松原海児)やラムネ屋の凛(立和名真大)が往来する。そこへやってきたのがキサラギ舞踊団だ。団員の柊(市川三四助)の話によれば、名門風流踊り手集団であり流れ物の団員たちが、このあとパフォーマンスを披露するという。3人の他愛ないやり取りが、戦時下の民衆の苦しさも一時の賑わいも一気に作り上げていた。
舞踊団を率いるのは、団長の如(石橋正次)と月(市川段之)。古典でも現代劇でも変わらぬ存在感を発揮し、一団の洒脱な土臭さとプライドを見せる。ダンスパフォーマンスを牽引するのは麓(穴井豪)。柊や、彼方(市川翔乃亮)、陽向(市川笑猿)、菫(市川翔三)、旭(市川喜介)たちは、息のあった“わちゃわちゃ”でキサラギ舞踊団の一体感を作る。それでいて突破力ある明るさや視座の高さ、距離感などで個性を光らせ、それぞれのやんちゃさを見せていた。ダンスシーンは作品にメリハリを生み、感情を迸らせる台詞まわしには師匠の面影が重なる瞬間も。若手歌舞伎俳優たちの未知数の輝きに胸が躍る。
フェスが舞踊団の踊りで盛り上がったところで、エメラルド色のベールをまとった踊り子・翡翠(松雪)がステージへ。後の帯刀の言葉を借りるなら、翡翠はまさに「光輝く広場の踊り子」。ベールの先まで光を含んだような美しさが行き渡り一帯に広がる。慈愛に満ちた艶やかな歌声は、物語と現実の境目なく聴衆の心を癒すよう。優しい力に吸い寄せられ、帯刀、陽光、そして清日古、3人の運命が交差する。清日古はその声に誘われ、生まれてはじめて昼日中に外に出る。
「歓迎されているよね、これって?」
帯刀によって祭りは打ち切られてしまうが、清日古は、不安と戸惑いの中に希望の手触りを知る。
その夜、翡翠は道でかどわかされそうになる。その場で警備兵に取り押さえられたのは清日古だった。もう1人、黒い影があったが白檀の香りを残して闇に消えてしまう。もう1人この現場に偶然居合わせた者がいた。キサラギ舞踊団の脚本を書いた劇作家の玄(嘉島典俊)だ。図らずも翡翠と警備隊長の陽光の親密な姿を目撃する。そして明らかになる翡翠の正体。翡翠は実は“ある大将”の妹・七綾。陽光は“ある大将”と敵対する立場にありながら、七綾と恋に落ちた過去を持っていた。身を守るために、陽光は翡翠に伝家の宝刀・村雨を託す。
陽光は品のある物腰でキーパーソンを演じる。キャバレーでの“見ず知らずの人”と、自然体の掛け合いで芝居に緩急を創り出す。キャバレーでは、広場でも見かけた住人の麦(市川段一郎)や幸(市川郁治郎)たちの姿もあった。口元しか見えない黒衣の男の役では物語を明瞭に伝え、かと思えばエキセントリックな髪型で登場するなど、芝居の空気を引き締めていた。玄は、動乱の世界をしなやかに楽しげに生き抜いている。全身から溢れるブレのない明るさは、狂言回しのように物語の行方を照らした。原稿料を取り立てに行くつもりが、キサラギ舞踊団の隠れ家でもある喫茶みらくるに迷い込む。そこへ翌日、広場で公開処刑が行われるとの報せが入る。鞭打ちの刑に処せられるのは、何の罪もない清日古だった。鞭にうたれ、晒されても抗うことはなかった。ただ水を求めた。その時に救いの手をさしのべたのは翡翠だった……。
輝くような出会いの裏で、すべての黒幕である帯刀は苦悩する。帯刀は、聖職者でありながら翡翠を求める気持ちを抑えられない。しかも翡翠は敵将の妹。聖職者として、権力者としての真面目さが自分の首を絞めていく。赤子だった清日古を見つけた日に龍のような雲を見たことも、「こうあらねばならぬ」にがんじがらめになった悲痛なまでの苦悩も、重く鮮やかに語り上げた。翡翠が光のような美しさであるのに対し、帯刀は闇の美しさ。囚われの身となった翡翠と帯刀の対峙は、鬼気迫るものがあった。翡翠は愛ゆえの強さを発露し、帯刀の愛ゆえの弱さを引きずり出す。2人の置かれた立場とはうらはらに、心情的な力関係が鮮やかに逆転する。ドラマが大きく動き出す。
広場に集まり、翡翠の解放を求めるキサラギ舞踊団。立ちはだかる警備兵たちの硬質な存在感が緊張感を高める。清日古は、翡翠を自身の聖域である鐘楼に匿う。清日古は、鐘の美しい模様を説明して聞かせ、心は清姫であると打ち明ける。一つ前の人生の恨みは、すべて焼き尽くしておいてきたかのような、穏やかで美しい場面だった。原作を思えば「清日古が翡翠に嫉妬して……」と展開する選択もあったはず。しかし本作では、翡翠の慈しみに触れて清日古は変わった。ありのままでは生きられなかった2人の、だからこそあなたには幸せになってほしいと祈るような、シスターフッドのドラマが胸を打つ。
9つの鐘を鳴らすまでに翡翠を引き渡すように。さもなければ火矢が御堂に放たれる。帯刀は迫る。清日古は、鐘の撞木を切り落とそうと考えるが、村雨を手にした時、空に龍のような雲が現れ、清日古が拾われた日のような雨が降り始める。清日古は自分の宿命を悟り、心を変えてあえて鐘を鳴らすのだった。9つ目の鐘をついた時、鐘楼に火矢が放たれ、火に包まれる。舞台は赤い幕に覆われる。歌舞伎ならば舞踊で表現されるであろう場面を、ぐっと写実に寄せた動きで、しかし踊るような情感をもち清日古は村雨を手に業火に包まれていく。力強く遠くを見据えながら……。
「別世界だ」と玄。
「焼け跡。万物が枯れた色」と月。
皆の言葉が、焼け野原を想像させた。そして再び立ち返る、冒頭のリリカルな台詞。人々がまた舞台に集まる。「にがい世界が生んだナミダを、あまねく地上に降らし、甘いドロップスで満たすのだ」。平和を願う幕切れに、客席は熱い拍手で満たされた。カーテンコールには、演出を手掛けた市川青虎も登場。音楽はSADA。衣裳は、京都芸術大学の学生の方が手掛け、京都公演では、アンサンブルキャストとして学生も舞台にも参加した。過去公演とはカラーの異なる第3回公演は、猿之助と愉快な仲間たちのさらなる飛躍を期待させる舞台となった。

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