クイーンやポリス、ピストルズらを撮
影してきた浅沼ワタル、英ロック界で
活躍した写真屋の行動力と交渉力――
「これは本当に世界で僕だけが撮れた
一枚」

ページをめくれば、ザ・ローリング・ストーンズ、レッド・ツェッペリン、ピンク・フロイドにザ・フー、ポール・マッカートニー、エルトン・ジョン、クイーン、デヴィッド・ボウイ、さらには、ジャパン、デュラン・デュラン、ポリス、ザ・クラッシュにセックス・ピストルズetc……英ロック黄金時代のドキュメンタリーとも言うべき圧巻の約100組、286点の写真を掲載。エリック・クラプトンの名盤『スローハンド』(1977)のジャケットなども手掛けるフォトグラファー・浅沼ワタルが、1971年に渡英し1983年に帰国するまでの鮮烈な日々を収めたのが、『ザ・ゴールデン・イヤーズ・オブ・ブリティッシュ・ロック 浅沼ワタル写真集』だ。同誌の発売を記念し、紀伊國屋書店グランフロント大阪店にて1月9日(月・祝)まで開催中の写真展では、世界のトップアーティストの写真のみならず、浅沼の私物のバックステージパスなど貴重な展示も多々。レジェンドたちとの刺激的な撮影をユーモアを交えて振り返り、さまざまな逸話が飛び出したインタビューでは、自らを「写真家」ではなく「写真屋」と称する彼の、タフな生きざまが浮かび上がってきた――。
『ザ・ゴールデン・イヤーズ・オブ・ブリティッシュ・ロック 浅沼ワタル写真集』
パンクもハードロックもビジュアル系も関係なく撮っていましたね
――『ザ・ゴールデン・イヤーズ・オブ・ブリティッシュ・ロック 浅沼ワタル写真集』を見ていると、何だか現実じゃないような……まるでロック史の教科書を読んでいるようで、この全てを撮った方が今でも実在することが信じられないです。
ありがとうございます。これはもう全部フィルム時代の写真なので、デジタル化するときに(掲載されていない写真まで)全部見て、いろいろと思い出していました。
――写真を一点一点セレクトする際は、どんなことを考えていたんですか?
素直に言うと、お金かな?(笑)
――アハハ!(笑) 日本だとアーティストを撮影した写真は、依頼元のレコード会社やマネージメント、メディア等が管理することが大半ですが、当時のイギリスではどういうシステムだったんですか?
ひとつ見本として話すと、エリック・クラプトンの『スローハンド』のジャケットは事務所からの依頼で、当時はモノクロとカラーを2台のカメラで撮っていたんです。それを納品するときに、「うちはカラーをもらうので、あなたはモノクロを持っていっていいよ」と言われたり、使った後にフィルムが全部戻ってきたり。イギリスではそういうケースが結構ありましたね。フリーのカメラマンのほとんどがそれで生活していたんじゃないかな?
――日本ではパンクならパンクとジャンルに特化したカメラマンが多い中、ここまでオールラウンドに一線のアーティストを撮っている方も珍しいなと。
それはロンドンにいたからこそだと思うんですよね。当時、日本の出版社であるシンコー・ミュージック・エンタテイメント​は、『ロック・ショウ』、『JAM』、『ミュージック・ライフ』という3冊の雑誌を出していたんですよ。『ロック・ショウ』はどちらかと言うとアイドル系、『THE JAM』はパンク系、『ミュージック・ライフ』はポピュラーとかロックとかの系統で、日本から電話が入ると「はい、分かりました!」と僕がどれも取材に行くわけです(笑)。僕にとって写真は写真なので、パンクもハードロックもビジュアル系も関係なく撮っていましたね。
結果、あれが世界で最後のフォトセッションになった
浅沼ワタル 1315
――エキサイティングなライブ写真もあれば、リラックスしたオフショットもあって……浅沼さんがアーティストを撮る際に心掛けていることはあるんですか?
それが何もないんです。僕はカメラにフィルムを入れて、シャッターを押すだけなので。
――むしろ、それが自然体で相手を構えさせないのかもしれないですね。
例えば、セックス・ピストルズのジョニー・ロットン(=ジョン・ライドン、Vo)の家に行ったときも、ジョニーが笑っている写真なんて当時はなかったので、頭から「お前、笑えるの?」とあおってみたら、「笑えるよ!」と(笑)。こっちから「こういう写真を撮りたい」とあえて言っちゃうことで距離が縮まったり、撮る相手がどんな趣味や興味を持っているかをその場で見出して、そこを突っ込んでいくと喜ぶんですよ。「俺のことを分かってくれている」というか、「俺の趣味を見つけてくれた」みたいな感じで。だから、ジョニーの家の2階にオーディオ機器がズラッと並んでいるのを見て、「あんたオーディオに興味があるんだ」とか言って和ませたり。
――ジョニー・ロットンは好青年で、イメージとは全然違ったらしいですね。
その後、PiL(=パブリック・イメージ・リミテッド)として東京で写真を撮ったときも、顔見知りだったので「お前の言うことなら何でも聞くよ」と言ってくれてね。
Photo by Watal Asanuma / Shinko Music Archives
――ただ、シド・ヴィシャス(Ba)とその恋人のナンシー(・スパンゲン)に関しては、イメージ通り最もハードな取材だったと。
あの恐怖は……最初で最後じゃないかな(笑)。前日にレストランで暴れて新聞沙汰になっていたので、恐る恐る撮影に行って。しかもそのときはレコード会社の人間もマネージャーも誰もついて来なくて、「いつ暴れ出すんだろう?」と。
――そこでシドを撮っていたらナンシーが、「私が撮られていない!」と怒り心頭でシドに告げ口し「一緒に撮れ!」と。ペンキまみれでぐちゃぐちゃの部屋の中で唯一マシだったトイレに2人を押し込んで撮影したのが、写真集にも掲載された伝説のツーショットで。
結果、あれが世界で最後のフォトセッションになったんですよね。
――その1週間後に2人はニューヨークに行き、あっという間に亡くなってしまった……何とも運命的というか。
ザ・フーのキース・ムーン(Dr)も、亡くなる7〜8時間前の写真になったのかな? ウイングスが『ウイングス・オーヴァー・アメリカ』(1976)という3枚組のアルバムを出したとき、映画にもなったんですよ。その試写会に芸能人だとかいろんな人が観に来て、僕は映画館に入ってくる人をパシャパシャ撮っていたらキース・ムーンも来て。映画を観て、家に帰って、朝のニュースでキース・ムーンが亡くなったと聞いて「えぇー!?」と。
――その場に居合わせるのもカメラマンの才能だ、みたいに言いますけど。
その場に呼ばれていなかったら、ただニュースで「キース・ムーンが亡くなった」と知るだけで終わっちゃいますもんね。そういう機会にちょくちょく出くわせたのは、ラッキーだったんじゃないかと思います。
当時はいつもけんか腰でしたから(笑)
浅沼ワタル 1787
――そもそも浅沼さんがカメラマンを志したのは、グラフィックデザイナーの叔父さんがニコンのカメラを持っていたのに憧れて。同じようにデザイナーになろうと思っていたら。
「お前は絵が描けないからデザイナーはダメだ」と言われて(笑)。
――「だったらカメラマンになる!」と独学で学び、当初はイギリスでモータースポーツを撮ろうと思っていたらしいですね。浅沼さんと話していると、さらっと「海外で」「イギリスで」という話になりますが、今の時代ならまだしも、当時それを実現できたのには何か理由があったんですか?
現地のイギリス人から「フォトパスを取りたいならここに送りなさい」とか、「ここが事務所だから訪ねなさい」とか、いろいろアドバイスはもらっていたんですよ。ただ、イギリスに渡ったときの英語力はゼロ(笑)。そのときお世話になったデゾ・ホフマンというビートルズの専属カメラマンに、「事務所に居候していいよ」と言われて。当時から一緒にいた彼女、後の奥さんがデゾの知り合いで、彼を紹介してくれたのが始まりなんですよ。デゾが業界のドンだったので、彼と一緒にいることで一目置かれて、顔も売れて、レコード会社の人も良くしてくれて(笑)。
――それはめちゃくちゃラッキーでしたね。
だから、苦労という苦労はないんです。と言いながら、ユーライア・ヒープの撮影当日、(事前に申請したのに)会場に行ったら「リストに名前がないから帰れ」と言われて。そもそも最初からフォトパスを出す気がなかったんでしょうね。頭にきたからもうコンサートが始まっているのに、「マネージャーを出せ!」とガンガン詰め寄って。最終的には「分かった分かった……」と撮らせてくれました(笑)。
――それは浅沼さんのガッツがこじ開けた扉ですね。
当時はいつもけんか腰でしたから(笑)。
――ピンク・フロイドやT・レックス等、なかなか撮影にOKが出ないアーティストも撮れているのは、そういうところも関係あるんですかね?
ピンク・フロイドに関しては、最初は直接事務所に行って、「どこどこでコンサートがあるよね? そのフォトパスが欲しいんだけど」と交渉して。しばらく待たされたけど出してくれたんですよ。それで当日、会場に行って入口でパスを見せたら、「ピンク・フロイドは写真を撮らせないバンドだから帰れ」と。関係者に事情を話してようやく中に入れたと思ったら、今度はセキュリティが「このバンドは写真を撮っちゃいけないと言われてるからダメだ」と。でも、面白いことにたまたま同じ現場にポリスがいて、「いいんだよ、この人は」と言ってくれて(笑)。そうなるともう向こうは何にも言えないから。僕は音楽的にもピンク・フロイドが好きだったので、撮影できたのはうれしかったですね。
――ポリスは浅沼さんが専属カメラマンを務めるほど親しい仲だそうで。
日本のテレビ用に、スチュワート・コープランド(Dr)が元いたカーヴド・エアの映像を16ミリで撮ってくれと頼まれたのが最初で、機材を片付けているときにスチュワートから、「俺もそういう仕事に興味があるんだよな」と声を掛けられて、ちょこちょこ電話し合うようになったんですよ。そうしたら、あるときA&Mレコードに「バンドを紹介したいから、ヒルトンホテルの地下のポリネシア料理の店でランチを食べよう」と誘われて。ドアを開けたら社長からマネージャーから10人くらいいて、「ワタル! 俺の新しいバンドだよ」とスチュワートが(笑)。
――出会いが点で終わらず線になっていく。
あと、ポリスのマネージャーがスチュワートのお兄さんで、「ずっとお前に会いたかったんだよ!」と受け入れてくれた。そこから事前にああしようこうしようと向こうから連絡が来るようになって、「実は来日が決まったんだ」と言うから、ロンドンから東京に行くのかと思ったら、ハワイでライブをやってから日本に入ると。じゃあそこで写真を撮ろうと、大きなクルーザーを借りてフォトセッションをして……。そういうふうにツアーに同行して、どんどんバンドと友達みたいに、兄弟みたいになっていった。よく「ポリスの4番目のメンバー」と呼ばれるぐらいに仲良くなって、「メンバーはワタルの言うことは聞くけど、マネージャーの言うことは聞かない」とか言われていましたよ(笑)。
まだまだ引き出しはいっぱいあるので(笑)
浅沼ワタル 1837
――今回の写真集の中で個人的に目を引かれたのが、ザ・ローリング・ストーンズのキース・リチャーズ(Gt)のクールな車中のショットで。
あれはネブワースのコンサートのとき、僕はプレスなので裏にいたら、ゲートが開いてバックステージにキースの車が入ってきたんです。この写真は本当にその一瞬ですね。
――オジー・オズボーンやアイアン・メイデンもめちゃくちゃ若いし、デュラン・デュランも笑顔がかわいい素敵な写真ですね。
デュラン・デュランがEMIと契約した翌日にレコード会社から電話がかかってきて、「あんたが絶対に好きなバンドだから写真を撮ってくれる?」と言われて、(メンバーの故郷である)バーミンガムに行ったんですよ。それから仲良くなってね。
Photo by Watal Asanuma / Shinko Music Archives
――あと、浅沼さんと言えばクイーンの数々の写真も有名ですが、バンドがスターダムを駆け上がっていくのを見守った経験はいかがでしたか?
それはそれはうれしかったですよ。レコーディングに立ち会ったり、パーティーに出たり、個人的に食事に行ったり……そういう人たちがアメリカでも成功したときは「やった!」と思いましたけど、あまりにも規模が大きくなり過ぎちゃって。メンバーは会えば喜ぶけど、前みたいにベッタリというのはやっぱりなくなる。でも、ポリスはそういうことも全然関係なく、いつでも同じ距離で、家族ぐるみで付き合ってくれて。
――「ポリスと家族ぐるみの付き合い」というのがパワーワード過ぎて、どうしたらそんな状況になれるんだと思ってしまいますね(笑)。
よくブティックに連れて行って、「これ着なよ」と洋服を選んだりもして。スティング(Vo.Ba)と僕はサイズが同じなので持っていた服をあげたら、それを着て記者会見に出たり、飛行場で映像に映ったりして、「あ、俺のシャツを着てる」と(笑)。アンディ・サマーズ(Gt)の家に行ったときは、ゴールドディスクが部屋中にあって「いいなー俺なんか何ももらえないのに」と言ったら、次の日に事務所の秘書の方から「はい、ワタル」と渡されたのが1枚目のプラチナディスクで。後々マネージャーが僕の家に来たときにそれが飾ってあるのを見て、「あ、そうか。アンディか」とツーカーで分かってくれました(笑)。
――ある意味、人にあげるほどプラチナディスクを獲っているポリスがすごい(笑)。いやー次から次へと、どんどん逸話が出てきますね。
まだまだ引き出しはいっぱいあるので(笑)。BBCの音楽番組『オールド・グレイ・ホイッスル・テスト』に2年間オフィシャルで入っていたときも、スタジオで待っていたらジャパンが来て、デヴィッド・シルヴィアン(Vo)が「ワタル、ここで何をやっているの? 俺たち、写真は撮らせないよ」と言うから、「あいつらが何か言っているぞ」とプロデューサーに伝えたら、「写真を撮らせるか、ここから帰るか、どっちにする?」とその人が(笑)。
――浅沼さんはジャパンとも親密で、スティーヴ・ジャンセン(Dr)が描いてくれた似顔絵が、数々のバックステージパスと共に写真展で展示されています。キャリアを重ねるにつれデヴィッド・シルヴィアンはどんどんナーバスになっていったそうですが、それもバンドのそばにいるからこそ分かる変化でもありますね。
ね。でも、向こうからすれば僕自身も変わっていったと思うんですよね。だから、それはそれで仕方のないことかなと思って。ただ、ジャパンは日本であれだけ盛り上がったけど、世界を制覇できなかったのがちょっと残念だったかな。
フィルムは今でも生きている
浅沼ワタル 1826
――浅沼さんがここまで続けてこられた、極意みたいなものはありますか?
これです(笑)(としゃべるジェスチャーをする)。相手に対して、嘘をつかないで直球を投げる。そうすると向こうも直球を投げてくるので、「お前となら一緒にできるな」と。
――忖度なしで、ちゃんと本音でぶつかり合っていいものを作る。
今は雑誌もなくなっていって、CDが売れないのでレコード会社から宣伝費も出ない。それで仕事がなくなっちゃうじゃないですか。でも、僕の実績=フィルムは今でも生きている。実はこれ=『ザ・ゴールデン・イヤーズ・オブ・ブリティッシュ・ロック 浅沼ワタル写真集』はごく一部なんですよ。まだまだ写真はたくさんあるので。アメリカのバンドも結構撮っていますから。
――もしかしたら今後、『ザ・ゴールデン・イヤーズ・オブ・アメリカン・ロック』も!?
あるかもしれないですよね(笑)。チープ・トリックは日本でも成功しましたけど、イギリスに初めて来たときに食事をしたり、地方のコンサート会場について行ったら、たまたまコージー・パウエル(Dr)も来ていて。僕はコージーが当時やっていたレインボーの初来日にも全日程ついていて仲良かったから、バン・E・カルロス(Dr)に「コージーにも一曲叩かせてくれない?」と試しに頼んでみたら「OK!」と(笑)。お客さんも「チープ・トリックでコージー・パウエルが叩いてる!」とすごく喜んでいましたよ。そういう写真もまだまだ眠っているので。
――現在開催中の写真展は12月19日(月)で一部展示が入れ替わったので、すでに訪れた方もまた新たな写真が見られるんじゃないかと。浅沼さんも先日、2日間にわたって在廊されたそうで。
僕がこの前出演したBS朝日の『ベストヒット USA』を観ましたという方、東京の友達から聞いて来ましたという方や、(昨年、浅沼が発表したクイーン公式写真集)『クイーン 輝ける日々の記憶 浅沼ワタル写真集』を持っているけど、サインをしてもらいたいからと2冊目を買ってくれた方もいて。大阪まで来たかいがありました(笑)。
Photo by Watal Asanuma / Shinko Music Archives
――最後にこれから写真展に来られる方や、写真集を手に取ってくれる方に向けて何かあれば。
実はこの本の表紙は、デヴィッド・ボウイとギタリストのミック・ロンソンの写真じゃなくて、文字だけの予定だったんですよ。そこを僕は「文字だけだと売れないから写真にしよう!」とひっくり返して(笑)。
――しかもこの写真は、一度は撮影NGが出たところを交渉して、ようやく撮れた一枚で。これまたBBCの音楽番組『トップ・オブ・ザ・ポップス』のオフィシャルということで、一番離れた位置からなら撮影できることになって。
番組は生放送だったので前に出ると目立つから、一番後ろでカメラが入っているのが分からないように撮ってくれと。大変でしたね。だからこれは、本当に世界で僕だけが撮れた一枚ですね。ファンも喜んでくれたし、業界人も「こんな写真があったんだ!?」とビックリしていました。
――本当にメモリアルな一冊になりましたね。なお、写真展は紀伊國屋書店グランフロント大阪店にて1月9日(月・祝)まで。最終日には再び浅沼さんが在廊されるとのこと。ぜひ足を運んでいただきたいですね!
取材・文:奥“ボウイ”昌史 撮影:渡邉一生

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