≪村中悠介≫エンタメの中心を作る男
~DMM.com(COO)の素顔「ジーコとの
出会い」「社員7人からスタート」「
失敗を恐れない若さの特権」苫小牧の
サッカー少年が夢見る未来予想図とは
!?

DMM.com最高執行責任者COO村中悠介さんに「音楽」「生き様」についてインタビューしました。音楽観、人生を変える転機、出会い、サプライズ、そして若者に対してのエール、強く生きる秘訣など様々なことを打ち明けていただきました。

―――村中さんが助けられた曲を教えてください
村中 若い頃自分が好きでよく聴いてたのはサニーデイ・サービスでして、いろんなところで助かった記憶があります
ーーー村中さんは北海道苫小牧ご出身ということですが、若い頃の音楽観はいかがでしたか?
村中 当時は人と同じことするのがすごい嫌いでした。友達がみんなB‘zさんを聴いていて、「これすごいいいから」って言ってアルバムを貸そうとしてくるんですよ。なので当時はすごく嫌でした。もちろん、今はB’zさんは大好きですけど。みんな聴いているから嫌い、疑う、そんなヒネクレものでしたね。逆にみんなが聴いていないものを探そうと洋楽とか、まわりの友達が聴かないものを消去法で聴いていました。
ーーーその後も、意図的にそういう風に生きてきた感じですか?
村中 今、振り返ると苫小牧から早く出たかったんでしょうね。「苫小牧」という故郷が僕の個性を色濃くしてくれました。今では感謝です。
続いて「村中悠介HISTORY」に迫っていきたいと思います。「幼少期~学生時代」には、スポーツマンな一面と、アイスホッケー選手だった4つ上の従兄に影響を受けた人物像が浮き彫りに。「東京~上京」には、東京で様々な可能性をさぐり、人と運の引き寄せを忘れない村中さんの姿勢が垣間見え、「転機~事業責任者~COO」では、自信と情熱が人を動かす、数々の事業を成功させた村中さんから令和の日本に必要なビジネス像が見えてきます。
〇 幼少期~学生時代
―――どんな幼少期を過ごしましたか?
村中 北海道苫小牧市に生まれまして。両親は会社員で共働きでした。小学校2年で野球を始めまして地元のクラブチームに入団。ポジションはセカンドとセンターでした。小学校5年生からは学校の部活でサッカー部に入部。ヤンチャなスポーツ少年でしたね。毎日部活漬けでアイスホッケーも1年やってました。
―――印象的なエピソードありますか?
村中 小学校6年生のとき1991年Jリーグ発足の1年前でジーコ選手に会えました。苫小牧市のサッカー場に住友金属(後の鹿島アントラーズ)のジーコ選手が来日してまして町中が大騒ぎになって。もうジーコ選手のプレイをみて感動しました。サインも貰えて今でも忘れられません。現在のサッカー事業にも繋がっていると思います。それと4才上の従兄で元アイスホッケー日本代表選手、H.C.日光アイスバックス監督を務めた忠寛(ただひろ)がいまして帰省するたびに彼から影響を受けましたね。カッコいいなあと憧れでした。
https://www.jfa.jp/social_action_programme/yumesen/pdf/murai_tadahiro.pdf
―――中高生はどんな少年だったのですか?
村中 中学はサッカー部に所属。サッカー漬けでしたね。1年生で初めて彼女ができました。高校では地元の工業高校建築科に進学、サッカー部に入部しました。高校は従兄の忠寛が通学していた学校で良く話には聞いてました。苫小牧市内では1番の進学校でした。ちなみに田中将大選手が卒業した駒大苫小牧高校は滑り止めで受験しました。高校に入って人生初の挫折を味わいまして、ケガでサッカー部を退部。その後、吹奏楽部に転部しました。悔しくて、逆に意地でも学校だけは頑張ろうと3年間無遅刻の皆勤賞を果たし、卒業しました。
―――学生時代にハマっていたいまのはありますか
村中 父の影響でアニメや漫画、ゲームにハマりましたね。漫画ですと「沈黙の艦隊」で、よく遊ぶ友達の家や従兄・忠寛の家に漫画がたくさんあって大人が読むような難しい漫画も読んでました。
https://www.sunrise-inc.co.jp/work/detail.php?cid=115
アニメですと「ドラゴンボール」。ゲームはもちろんサッカーゲーム。あとラジオもよく聞いてましたね。牧瀬里穂の番組に夢中となって、当時はラジオの電波状況が悪くて外で聞いていたことを思い出しますね(笑)。
 
 〇 東京上京~就職
―――東京上京したときのお話をお聞かせください
村中 高校時代は進学か?就職か?迷ったんですが経済的に余裕がないことから就職を選択しました。従兄・忠寛が東洋大学にいたので東京の情報が自然と入ってくる環境でした。1998年卒業当時は地元と比べ、東京には就職先がたくさんありまして魅力を感じましたね。18才で東京都八王子市の株式会社田中建設に就職。住み込みで働きました。初任給は14万で主な仕事内容は現場監督。マンションや病院の現場が多く、人間関係や集団で物事を完結する難しさなど学ぶことが多かったです。2001年に退職。神奈川県川崎市に田中建設の同期の人間と一緒に住みまして新しいことにチャレンジしようと思いました。ドトールコーヒーで正社員の面接を受けたり、アパレル関係、吉野家でアルバイトをしながら「自分が経営者だったら、もっと効率よくできるなあ」とイメージをしながら働く青年でした。あと湯沸かし器を借家に売り込む会社でも働きましたが1日やめました(笑)
―――DMM.comにはどのように入社したのですか?
村中 ふとコンビニで求人雑誌「doda」を見ていたところDMM.comのグループ会社に2002年入社しました。7人程度の動画配信事業に配属され、全国店舗に映像コンテンツを卸す営業に就き、入社2年目になる前にエリアマネージャーを任されました。2004年DMM.comができたタイミングで社内公募がありまして、創業者の亀山敬司の助言でデジタルメディアマート(のちの合同会社DMM.com)へ転籍。当時のDMMはヲタクだらけで10人いないくらいの規模でした。ビジネス内容はDMM(東京都)、開発内容はDooga(石川県に100人弱在職)と住み分けられていて。転籍初日の仕事が当時の代表取締役社長・松栄立也さんの引っ越し手伝いでした。
―――入社早々順調だったんですね?
村中 DMMで働きながら 子会社でもエリアマネージャーを続けてまして。3ヶ月のお試し期間が終わった後、会長に子会社に戻ろうか相談しに行ったところ「外で2時間、考えてみろ」と忠告を受けました。もう決心は固まりましたね。その後、DMMではレンタル、動画、通販、同人、電子書籍などコンテンツホルダーに許諾を取る営業をしました。並行して伸びそうなサービスを自分で考えてDoogaに開発をお願いすることもしてました。動画の定期配信サービスも立ち上げました。PM(プロジェクトマネージャー)と営業全部を1人でこなし、心身ともに鍛えられました。
〇 転機~事業責任者~COO
―――何がキッカケで責任ある役職にたどり着いたのですか?
村中 2005年に総合格闘技「PRIDE」とライブ配信の交渉をはじめました。DMM初のライブ配信事業でしたので責任重大でしたが、2006年末に大会を配信、1人でプロデュースを担当。翌年の「PRIDE」、打撃系格闘技イベント「K-1」のライブ配信が成功しました。
https://www.value-press.com/pressrelease/8883
2008年には「X JAPAN」伝説の復活ライブを独占配信。契約交渉からウェブサイト制作まで全て担当しました。たまたまX JAPANのPV公開撮影の情報を見つけて関係者と名刺交換。その関係者がマネジメントをしていた方で幸運でした。
https://natalie.mu/music/news/6253
2008年頃に事業部化されまして事業部長に就任しました。動画事業のPM(プロジェクトマネージャー)をしながら契約交渉、金額交渉、ウェブ制作全てを担当。2009年から「DMM.TV for Blu-ray Disc」を開始しました。
https://news.mynavi.jp/techplus/article/20090806-a039/
2010年に「ポイントオークション」、アイドル公演生配信「AKB48 LIVE!! ON DEMAND」リリースを担当する。2011年にはDMM取締役に就任。DMMマネーカード(現「DMMプリペイドカード)、コンビニでの「DMMギフト券」取り扱い、2012年にチャリロト取り扱い開始(現「DMM競輪」)。
2017年にシントトロイデン(ベルギーサッカー1部リーグ)の経営権を取得し会長に就任。アニメーションレーベル「DMM pictures」を設立し、数々のアニメ作品の製作、企画に携わる。2018年、合同会社DMM.com 最高執行責任者COOに就任。株式会社インフラトップを買収し取締役に就任しプログラミングスクール「DMM WEBCAMP」をスタート。コーポレートベンチャーキャピタル「DMM VENTURES」を立ち上げる。2019年、合同会社EXNOA 最高経営責任者CEOに就任。ゲームプラットフォーム「DMM GAMES」を成長させる。2021年、朝日放送グループホールディングス株式会社との合弁会社である株式会社ONE DAY DESIGN 取締役COOに就任。インターネットとTV通販を融合した新規事業を開始。アビスパ福岡株式会社(Jリーグクラブ アビスパ福岡)の一部株式を取得し取締役に就任。
―――最後に未来ある若者へ一言お願いします
村中 そうですね。失敗は若いときにやったほうが良いと思います。失敗しても許されるうちはお金や時間を使ってでも。よくポジティブと言われるのですが、昔はそうではありませんでした。若いときに滅茶苦茶、怒られたせいで、逆に「まあ死なないしなぁ」って開き直れまして(笑)。「やらない後悔より、やって後悔したほうが良い」。以上です!ありがとうございました。

◆プロフィール◆
村中悠介(むらなか ゆうすけ)1979年7月12日、北海道苫小牧市生まれ。
合同会社DMM.com 最高執行責任者COO、合同会社EXNOA 最高経営責任者CEO、シントトロイデン(ベルギーサッカー1部リーグ)会長、DMM VENTURES インベスター、株式会社インフラトップ 取締役、株式会社ONE DAY DESIGN 取締役COO、アビスパ福岡株式会社(Jリーグクラブ アビスパ福岡)取締役
★主な担当作品★
【テレビアニメ】「有頂天家族2(製作)」「捏造トラップ-NTR-(企画)」「DIVE!!(製作)」「アニメガタリズ(企画)」「恋は雨上がりのように(製作)」「銀河英雄伝説 Die Neue These 邂逅(ライセンス)」「Dies irae(企画)」「いぬやしき(製作)」「ドメスティックな彼女(企画)」「ニル・アドミラリの天秤(企画)」「川柳少女(企画)」「みだらな青ちゃんは勉強ができない(企画)」「荒ぶる季節の乙女どもよ。(企画)」「炎炎ノ消防隊(企画)」「真・中華一番!(製作)」「ダイヤのA actII(企画)」「波よ聞いてくれ(企画)」「海獣の子供(製作委員会)」「銀河英雄伝説 Die Neue These 星乱(ライセンス)」「プラオレ!~PRIDE OF ORANGE~(エグゼクティブプロデューサー)」「ブルーピリオド(企画)」「ダンス・ダンス・ダンスール(製作)」ほか

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