フィールドレコーディングの祖
アラン・ロマックスが発掘した、
ふたりのブルースマンの
“原石”のような記録
(ミシシッピー)
フレッド・マクダウェル、発見される
※ファイフとは日本の篠笛のような短い横笛で、ブルースの発生以前から、村や集会場などで、太鼓と共に、踊りの伴奏などおこなっていたようです。奇跡的にこの時の映像が記録されている。
African-American Fife & Drum Music:
Mississippi & Jamaica
(ミシシッピー)フレッド・マクダウェルは、1904年、メンフィス近郊、ミシシッピ州境に近い、テネシー州ロスヴィルで生まれたという。両親は農民で、フレッドが若い頃にふたりとも亡くなっている。彼は14歳でギターを手にすると、ロスヴィル周辺のダンスの集まりや集会場で演奏するようになる。覚えがはやかったのだろう。ただ、誰にも習ったことはない、自己流だと何かのインタビューの折に語っている。1926年にメンフィスに移り、そこで綿や油、飼料工場などで働くが、2年ほどで綿を選ぶための仕事についてミシシッピに引っ越した。最終的にミシシッピ州コモに定住し、週末にダンスやピクニックで音楽を演奏し続けながら、農民として働いていたのだ。そのギターの腕前は近辺ではちょっと知られる存在ではあったのだが、音楽で身を立てられるとはハナから思っていなかった彼は、他のブルースマンのようにあちこちの酒場やジュークジョイントを回ったり、旅をすることもなく、ずっと地元で農作業のかたわら、自分の楽しみと仲間を喜ばすためにだけギターを弾くという暮らしを続けていたのだ。ロマックスが彼を発見した時、フレッドは55歳だった。
彼の演奏するのはブルースとゴスペル。そして、自分の奏でる音楽というのは上品に腰掛けて神妙に聴かせるものなどではなく、みなを踊らせ、酔わせる伴奏音楽なのだと徹底していた。1967年頃に録音されたというフレッドとジョニー・ウッズによる『ママ・セッズ・アイム・クレイジー(原題:Mama Says I’m Crazy)』などは、ギターとハーモニカ、ヴォーカルだけの演奏ながら、体をじっとさせておられないような激しいグルーブとバイブレーションを起こさせる。こんな演奏は誰にも真似できない。一方、地元コモで通っている教会のコーラス隊とレコーディングしたゴスペル集『アメイジング・グレイス(原題:Amazing Grace)』(’66)などは、そのあまりにも深淵なブルースのトーンに身動きが取れなくなるほどだ。
それから13年、1972年に亡くなるまで、フレッドはフルタイムのミュージシャンとして、そして本物のブルースマンとして、充実した音楽活動を続けた。ミシシッピーの田舎町から出たこともなかった彼が、全米を回り大都市でライブをする、それどころか大西洋を渡って英国、欧州まで招かれて演奏する。大きな会場で演奏する機会も増え、エレキも使ってみた。そして、レコーディングも頻繁に行なわれ、それがリリースされるや、大変な評判になった。といってもブルースというジャンルがヒットチャートに登場するようなことはない。1962年〜70年にかけて英国やヨーロッパで開催された『アメリカン・フォーク・ブルース・フェスティバル』、米国でも,あのボブ・ディランが登場するのと同じ1964年頃から『ニューポート・ジャズ&フォーク・フェスティバル』(フェス自体は50年代から開催されている)にハウリン・ウルフや最初に紹介したマディ・ウォーターズ、ミシシッピー・ジョン・ハートらブルース勢が出演しだしてから、若者がブルースに惹かれだしていく。そうしたブルースマンらがフェスに出演するようになる理由というのが、これまた先に紹介したアラン・ロマックスらによる米国南部のアパラチアのマウンテンミュージックからミシシッピー、テキサスのブルースを発見したことが起因となるフォーク&ブルース・リバイバル・ムーブメントだった。
英国でブルースに飛びついた若者の筆頭というのがエリック・クラプトンやアレクシス・コーナー、ジョン・メイオール、ローリング・ストーンズ、フリートウッド・マックといった面々であり、米国ではポール・バターフィールドやキャンド・ヒートといったバンドがいち早くブルースをベースにした音楽性で堂々とチャートインしてくる。60年代から70年代前半にかけて、続々とこうしたバンドが生まれては消えするのは、フォーク&ブルース・リバイバル・ムーブメントの刺激が絡んでいるのは間違いないだろう。
フレッドに話を戻すと、彼について最もポピュラーなエピソードとしては、米国の女性ブルース・ギター&シンガーを代表する存在であるボニー・レイットはまだデビューする以前、フレッドにボトルネックギターを習ったということだろう。フレッドとの付き合いはデビュー後も続き、1970年の夏、彼女は『フィラデルフィア・フォーク・フェスティバルでフレッド』と共演も果たしている。その経験が彼女のデビュー作『ボニー・レイット(原題:Bonnie Raitt)』(’71)、初期の傑作『ギヴ・イット・アップ(原題:Give It Up)』(’72)にたっぷり生かされている。レイットはフレッドの死後、私費で彼の墓碑を建立している。
もうひとつの大きなエピソードはローリング・ストーンズが1971年に全英、全米共に1位を記録した大傑作アルバム『スティッキー・フィンガーズ(原題:Sticky Fingers)』でフレッドの「ユー・ガッタ・ムーブ(原題:You Gotta Move)」をカバーしていること。アレンジもフレッドのものとほとんど同じである。その直前、フレッドは雑誌のインタビューを受け、「I Do Not Play No Rock’n ‘Roll(俺はロックンロールはやらない)」と言っていたのだが、ストーンズが自分の曲を取り上げたことに対しては素直に喜んでいたという。なにせ、結構な収益がもたらされたはずで、翌年には亡くなってしまう彼には、いい冥土の土産になった、というべきか。
TEXT:片山 明