『オワリカラ・タカハシヒョウリのサ
ブカル風来坊!!』おおらかで刺激的
だった「ゲームブック」の世界 ライ
ター塩田信之に直撃インタビュー【前
編】

ロックバンド『オワリカラ』のタカハシヒョウリによる連載企画『オワリカラ・タカハシヒョウリのサブカル風来坊!!』。毎回タカハシ氏が風来坊のごとく、サブカルにまつわる様々な場所へ行き、人に会っていきます。
第25回目は、80年代~90年代にブームを巻き起こした「ゲームブック」についてお話を伺ってきた。

目が慣れてくるにつれ、迷い込んだ洋館の内部がうっすらと見えてきた。
よく目を凝らしてみると、広間の壁には様々な調度品が飾られているようだ。
近づいて、そのうちの1つを手に取ってみる。
この重さ、この形…、バーコードバトラーだ!
「ひっひっひっ、よくきたね」
驚いて声がする方へ振り返ると、暗がりからローブを着た老婆が現れた。
「ここは、昭和と平成の隙間に囚われた、呪われた館さ。ゲームブックを探してるなら、こっちに来な…」
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1、
さて、読者の皆さんは「ゲームブック」をご存知だろうか?
一見すると普通のファンタジー小説のようにも見えるが、ペーシをめくってみると、物語が番号を振られた無数のパラグラフ(段落)に分かれている。
読者は、自ら行動を選択したり、ダイスを振ったりして、能動的に物語に参加し、それに応じて物語の行く末が変わっていくというインタラクティブな要素を持ち合わせた小説が「ゲームブック」である。
要するに、「ゲーム」のように遊べる「ブック」である。
海外から輸入されたゲームブックは80年代後半にブームを巻き起こし、国内では『ファイティング・ファンタジー』などの海外翻訳ゲームブックと共に、ゲームソフトを題材とした低年齢向けのゲームブックも次々と刊行され子供たちを熱狂させた。
今回は、そんな「ゲームブックの世界」に迫るべく、双葉社の『ファミコン冒険ゲームブック』シリーズなどで数多くのゲームブックの執筆を担当したライターの塩田信之さんにお話を聞いてきた! >>2へ進む。
2、
◆1986年、「ファミコン冒険ゲームブック」のころ
タカハシ:本日は、僕(タカハシヒョウリ)とSPICEの加東さんで、塩田さんにゲームブックのことを色々お聞きしたいと思っています。よろしくお願いします!
僕も子供の頃にゲームブックで遊んでいたんですが、時期的には90年代に入ってからなのでブームのかなり末期だったと思うんですよね。ポケモンのゲームブックとか、90年代中盤くらいにもゲームソフトを題材にしたゲームブックがまだ出ていて、よく遊んでいました。
まず、そもそものゲームブックのはじまりというか、最初に国内でゲームブックが勃興してきたのっていつくらいだったんですか?
塩田:84年に、『火吹き山の魔法使い』という海外のゲームブックが翻訳出版されました。ブーム自体が、海外が先行なんです。『火吹き山の~』が日本で出た後くらいのころに、スタジオ・ハードっていう会社の社長さんが「これは売れるんじゃないか」と目を付けて研究を始めて、話を双葉社さんにもっていって、まず『ルパン三世ゲームブック』があって、そこからファミコンのゲームを題材にしたものがたくさん出始めたんですね。だから、ルートとしては海外からの翻訳ゲームブックルートと、こういう『ファミコン冒険ゲームブック』のような形で低年齢層に向けたものの二つに大きく分かれている感じですかね。
タカハシ:本格的な海外の翻訳ものと、もっと簡易な子供向けのものと2ライン走っていたわけですね。
塩田:そうですね、社会思想社さんの『ファイティング・ファンタジー』とか、東京創元社さんの『ソーサリー』シリーズが本格的なゲームブックのラインでした。
加東:もともと海外には『ダンジョンズ&ドラゴンズ(D&D)』などのテーブルトークRPGのブームがあって、それを一人でもできるようにというパラグラフにしたのがゲームブックなんですよね。
タカハシ:当時の国産ゲームブックとしては、ファミコン冒険ゲームブックの全盛期のシェアはどれくらいだったんですかね?
塩田:僕は、どれくらいのシェアを持っていたのか、どれくらい売れていたのかは把握していないですね。ただ、全盛期の分母は大きかったと思うんですよ。
加東:当時、本屋にゲームブックコーナーがありましたからね。親父と本屋に行って、マンガ買ってやろうかみたいなときに、ねだってましたね。そうすると、やってるファミコンのタイトルのやつを見るんですよ。このゲームの本ならやりたいな、とか。
タカハシ:ノリとしては、ゲームをやっている延長でしたよね。ファミコンばっかりやってたら怒られるじゃないですか、「ゲームは1日1時間」とか。それを本で追体験できるっていう需要がありましたよね。
塩田:ファミコンが出た時代では家庭用ゲームソフトって高かったんですよ。4980円くらいから始まって、スーパーファミコン時代は9800円とかになったし。あまりポンポン買えるようなものじゃないから、ゲームブックだったら代替品になるだろうみたいなところはありましたね。だいたい400円台とかで売っていたわけですし。マンガみたいな絵ですけど、マンガじゃないので、親もちょっと買いやすいという要素があって。
タカハシ:塩田さんが、ゲームブックのお仕事にかかわるきっかけというのはどういうものだったんですか?
塩田:僕はスタジオ・ハードで編集補助のアルバイトの募集が出ていて、それに行ったんです。同人誌を作っていまして、小説とかを書いていたので「こういうのを書いてます」って渡したんです。それでしばらく経ってから、ゲームブックの話が立ち上がったときに「ちょっとやってみないか」という話で。
タカハシ:当時おいくつくらいでしたか?
塩田:僕は17歳くらいのころに編集補助のアルバイトに入ったので、たぶん18歳くらいのころから2~3年ですね。
タカハシ:すごい、若っ!
塩田:たぶんこの、ファミコン冒険ゲームブックを書いていたライターのなかでもほぼ最若くらいだと思うので。読者の立ち場にいちばん近いライターみたいな位置づけをされていたと思います。
タカハシ:実際にプレイヤーとして、海外のゲームブックを遊んでいたというのはあったんですか?
塩田:遊んでいました。もともとゲームが好きだったので、ゲームブックというものが出たという情報は手に入れていて、スタジオ・ハードに行く前くらいにはもうやっていたと思うんですよ。「あ、それなら知ってます」という感じで(笑)。そのときはまだ自分で作ったりはしていなかったので、作るノウハウとかは持っていなかったんだけど、それはスタジオ・ハードさんに提供していただいて、という感じですね。
タカハシ:コンピュータゲームも遊んでいらっしゃったんですか?
塩田:要はもう、勉強とかもしないでゲームをやっちゃうようなタイプ、ずっとゲームばっかりやっているような子供だったと思いますよ。
タカハシ:なるほど。最高ですね(笑)。
塩田:でもまだ家にファミコンは無かったかな。仕事を初めてから、自分でツインファミコンを買ったのが最初でしたね。なので、仕事を始めるまではファミコンを持ってる友達の家に遊びに行ってよく遊んでました(笑)。
タカハシ:スタジオ・ハードさんの社内のノリっていうのはどうだったんですか?わりと若い人が集まってゲームやってるみたいな感じだったんですか?
塩田:もともとベンチャー企業なんで、みんな若めといえば若かったけど、当時で30代くらいの人が多かったかな。でも、出版の編集者として仕事をしている人たちなので、そんなにゲームに詳しい人が多かったわけではなくて。ゲームを遊んでいる人っていうのももちろんいるんだけど、とくにゲームブックの部署に限って言えばそんなに詳しい人はいなかったと思いますね。
◆ゲームブックのできるまで
タカハシ:ここからは、当時実際にどうやってゲームブックが作られていったのかをお聞きしたいのですが、まずどのゲームをゲームブック化するかっていうのは、どういうふうに決まるんですか?
塩田:これはですね、まず版権がとれそうなゲームを出版社側で判断して交渉して、いくつかの編集プロダクションに振っていた感じですね。スタジオ・ハードのほかにも、レッカ社さんとか3つか4つくらいかな。その編集プロダクションに振った段階で、プロダクションの中に何人かずつライターがいるので、誰が書くかというのが自薦他薦で決まります。自分から「これがやりたい」って言ったこともあるし、「これやってくれよ」っていう感じで始まったこともありました。
タカハシ:ちなみに、自分からやりたいと手を上げて作ったものはどれですか?
塩田:僕は、『ウィザードリィ 魔術師ワードナの野望』と、『イース 戦慄の魔塔』もそうですかね。
塩田さん著作のゲームブックたち
タカハシ:『ウィザードリィ』は、ファンだったんですか?
塩田:そうです。なので、『ウィザードリィ』のゲーム性をなるべく紙の媒体で再現したいという望みがあって、自薦した感じですかね。『高橋名人の冒険島』とかは作り自体は楽しかったんですけど、もとのゲームがそんなに大好きだったのかっていうとそうでもない気はしますね(笑)。『ファンタジーゾーン』とかは、ゲームセンターでよく遊んでいましたけどね。
加東:『ファンタジーゾーン』のゲームブックは、僕もやったんですけど、面白いのはストーリーがオリジナルなんですよ。そもそも元のゲームが、シューティングなので(笑)。オパオパっていう飛行機が本来は自分が操作するキャラなんですけど、ゲームブックの主人公は別なんですよ。オパオパと一緒に冒険するみたいな話になっていて。ああいったシナリオライティングも塩田さんがやられているんですか?
塩田:そうです。基本的に出版社側から来るのはタイトルと概要くらいなので、それをどう料理するのかはライター次第ですね。
タカハシ:監修みたいな形で、いちおう版権元が入るんですよね?
塩田:入っているはずなんだけど……、いろんなゲームブックを作っているんですけど、メーカーの人と会ったりとか打ち合わせをしたりっていうのはこの時点ではぜんぜんなかったですね。
タカハシ:おおらかな時代だ。
塩田:これを書き換えてくれって言われた記憶はないですね(笑)。自分に限って言えばゼロだったので。
加東:そう考えると本当におおらかですよね。ゲームブックをとりまく関係者が全体的におおらかというか。
タカハシ:隙があるからこそ生まれてきたっていう良さはありますよね。
塩田:今は、こんなオリジナルの話にすることは不可能でしょうねえ。
タカハシ:そうですよね、監修はぎちぎちに入ってくるでしょうね。
塩田:ある程度変更することはできるのかもしれないけど、許諾がまず下りないでしょうし。
◆詰んじゃうバグ、誰も辿り着けない選択肢…、チャート作成の闇
タカハシ:ゲームのシステム的な部分=チャートの作成と、シナリオのライターさんは基本的には同じ人なんですか?
塩田:基本的にはそうですね。僕はゲーム作りが好きなほうなので、ほかの人のチャート作りとかもしていたりはするんですけど、基本はライターがプロットも考えてチャートも書いてます。
タカハシ:分岐を作るうえでのスキルというか、コツみたいなものってあるんですか?
塩田:そうですね、いろいろあることはあります。たとえば、意味のない分岐は作らない。選択をした2つのルートがあって、その片方のルートが表示されたあとに、すぐに合流しちゃうような物ですね。そこにフラグ管理があって、何何にチェックを入れるみたいな所があればまだいいけども、単純にリアクションだけ違って、すぐ合流しちゃうようなものは作らないというルールはありましたね。あとは、ダンジョンみたいな物を作るっていうのはゲームブックの中でよくあるんですけど、ダンジョンを作りすぎると話が面白くならないとか。
タカハシ:当然、バグみたいなものも出てくるじゃないですか。バグが残っちゃうことはないんですか?
塩田:あります。
タカハシ:じゃあ、「詰んじゃう」やつもあるということですかね。
塩田:それも、稀にですが……。僕のデビュー作がそうでしたね。光文社文庫で出た『妖魔館の謎』っていうゲームブックだったんですけど。菊地秀行さんが原作の「妖魔」シリーズをゲームブックにした作品なんですが、これがけっこうバグが残ってしまって。クレームが来て、スタジオ・ハードの社長が出版社に謝りに行ったというエピソードもあるくらいです。これは書いていいのかわからないけど(笑)。
タカハシ:デバッグというか、バグとりはするんですか?
塩田:バグとりはします。スタジオ・ハードで人を用意して、いろんな人に遊びながらチェックしてもらって、間違いがあれば一つずつ対応していくという感じです。
加東:どうやってもループしちゃうとか、そういうバグがたまにありますよね。指定番号がかぶっちゃうとか。
塩田:バグが出ないように、色々気をつけないといけないことはありましたね。
タカハシ:他にゲームブックを作っているときの、難しいところとか、苦労的なところってあったりします?
塩田:苦労はやっぱりバグとりなんだとは思うんですけども。私の場合、書いていたころはまだ若かったので、そんなに優れた文章が書けるわけでもなく、今見るとちょっと恥ずかしいですけどね。それは今の苦労ですよね(笑)。
タカハシ:たまに、ぶっとんだ選択肢みたいなのがあったりするじゃないですか。明らかに狙って、すごいおかしいやつとか。やっぱり、ああいうのも狙って作っておくみたいなのはあるんですかね。
塩田:ええ、それはありますね。まあ、ウケ狙いみたいなところだとは思うんですけど。たとえば、分岐にない単独の項目みたいなものを作ったりもして。パラパラめくって、偶然見つけたら面白いみたいなものを作ったりもしました。
加東:小学生くらいだと、ズルするんですよ。「もう一個のほう行ってみよう」ってペラペラめくっていくと、選択肢のひとつがお遊び項目で、ストーリーとは関係のない広告になっていたとかもありましたね。それにはどこからもたどり着けなかったり。
塩田:たぶん元をたどれば、デバッグをしていくうちに、必要なくなった項目とかができちゃったりするんですよ。そういうときに「ここ何を書くべ」っていうところで、関係ないものを入れ始めたのがきっかけだと思うんですけどね。
タカハシ:どうせ誰もたどり着かないし、みたいな(笑)。それはおもしろいですねぇ。
『高橋名人の冒険島 ティナを救い出せ!』より ダンジョン部分の印刷が別色になっている。
タカハシ:こうやって見ていると、1冊1冊でシステムに違いがありますね。作っていて、これはけっこうシステム的に遊んだなというものはあるんですか?
塩田:そうですね……僕はいちばん遊んだのは「高橋名人の冒険島」だと思うんですよ。これは、ダンジョンパートだけをまとめてページの地色を変えてあったり。水道管ゲームみたいな遊び方がしたかったので、イラストで3Dダンジョン風にしたり。
タカハシ:パートが分かれていて、それぞれ違うシステムになっているみたいな感じですね。
加東:衝撃なのは、裏表紙に高橋名人の写真が。
タカハシ:ゲームもそうだからね(笑)。曲も高橋名人が歌ってるという。(しかも上手い!)
塩田:高橋名人と会ったことはないですけどね(笑)。そもそも、ファミコン冒険ゲームブックは、本格的な海外のゲームブックほど複雑なシステムを持っていないので、戦闘もダイスは振るけど勝ち負けで判断するくらいのアバウトなものなんですよ。とくに『高橋名人の冒険島』とかって、ファミコン冒険ゲームブックのなかでも低年齢層向けに作っているんですね。低年齢層向けのゲームブックは横組みになっていて、通常のゲームブックは縦組みになっているみたいな違いもあります。どちらかというと、気楽に楽しく遊べるように、みたいな感じで作っているのは横組みのゲームブックで、『ファンタジーゾーン』なんかもそうだと思います。『ウィザードリィ』なんかは、ちょっと読み返して思ったんですけど、本格派のゲームブックっぽいものを作りたかったことがわかると思います。
加東:難しかったです。キャラシートが後ろに付いてて。
タカハシ:おー、すごい!ほんとに『D&D』的なキャラメイクして、ジョブ的なものを選んで、みたいな。
加東:これたしか、装備と職業と隊列とかもあるんですよね。本格的になればなるほどチェックシートがあって、かつ戦闘は全部ダイスを使うみたいな。かなりTRPGに寄っていく印象があったなあ。
タカハシ:僕がやっていた90年代中盤くらいのやつはぜんぶそうでしたね。チェックシートがついてて、塗りつぶしてレベルアップとか。けっこう複雑化していて、わりと煩雑だったという印象がある。そこは進化しきっちゃってたというか。
塩田:たぶんそれくらいの時期になると、やる人がわりとマニアックというか、ちょっと高度なものを求める人が多かったんじゃないかと思います。

86年に刊行が開始された「ファミコン冒険ゲームブックシリーズ」を筆頭とし、80年代後半にブームを巻き起こしたゲームブックだったが、90年代の幕開けが近づくにつれブームは下火となっていく。
次回更新の後編では、ゲームブックの衰退とその後をお聞きします!>>後編に進む。
文・インタビュー:タカハシヒョウリ 構成:加東岳史・塩田信之 撮影:加藤成美

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