コロナの苦難を乗り越えての初開催~
「豊岡演劇祭2020」観劇レポート(後
編)

新型コロナウイルスの影響で規模を縮小したものの、当初の予定通り開催された「豊岡演劇祭2020」。9月12・13日の前半に引き続き、9月20・21日の後半の日程にも足を運んだ。前回の訪問で、電車やバスの公共交通機関の時間帯が、非常に限られているというシビアな状況を学び、事前に時刻表検索をしっかり行い、すべての行程のメモを携えての再訪だ。

江原に到着して最初に観たのは、私が今回一つだけ観劇できたフリンジ参加劇団となる、劇団普通『電話』。「城山羊の会」の山内ケンジも注目しているという、劇作家・演出家の石黒麻衣の一人ユニットで、首都圏以外での公演は初めてだそう。茨城県在住の長男と、東京に住む次男&長女の3人が、ボソボソと電話で語る様を淡々と見せていく会話劇だ。
劇団普通『電話』公演チラシ。
留守電の設定ミスで、親戚の逝去を伝えることができなかったという話題を中心に、どうにも居心地の悪い会話が展開される。長年違う環境で暮らしたゆえの心の距離間が、目に見えてきそうなほどのリアルさだ。今どきの東京の若手の芝居は、どれもポストドラマ風にトガッているという偏見があったけど、朴訥とした茨城弁のトーンも相成って、言葉が染み込むように入ってくる。公演終了後の、肩肘張ってない雰囲気のトークも好印象だった。
会場の江原から1時間以上バスを待って、変わりゆく線『四つのバラード』 『diss__olv_e』を観るために[豊岡市民会館]へ。今回の公式プログラムでは、唯一となるダンス公演だ。『四つのバラード』の振付は、イスラエル人のロイ・アサッフ。出演は「スウェーデン王立バレエ団」の元プリンシパルで、来年から豊岡を拠点にする予定のバレエダンサー・木田真理子。さらに同バレエ団を始め、数々のダンスカンパニーを渡り歩いた京都のダンサー・振付家の児玉北斗のデュオ作品となる。
ロイ・アサッフが兵役直後に聞き、激しく魅了されたというブラームスのピアノバラードをバックに、暗幕すら引かれないむき出しの舞台の上で、木田と児玉の身体が滑らかに動く。時にわかりやすいほどセクシャルであり、時には反発なのか共鳴なのかが微妙な関係が、浮かんでは消えていく。高い跳躍など、素人目にもわかりやすいテクニックを誇示するのではなく、音楽の流れにただ身を任せるような、ストイックなダンスが印象に残った。
変わりゆく線『四つのバラード』。
もう一つの『diss__olv_e』は、ダンスカンパニー「OrganWorks」を主宰し、小林賢太郎作品の振付や森山未來とのコラボレーションなど、幅広いジャンルで活躍する平原慎太郎が振付&カンパニーメンバーとともに出演する新作。タイトルの「Dissolve(溶解)」が示す通り、異なるもの同士が溶け合うこと、理解し合うことをコンセプトにしたダンスだ。
真っ赤な風船が舞台いっぱいに転がっている舞台に、6人の男女のダンサーが登場。風船の動きは不規則だし、故意に風船を割るシーンもあるが、思いがけない時に割れることもあるだろう。そんな不確定要素の多い舞台上で、ダンサー同士のみならず、風船との関係も考えながら踊りを完成させること自体が、平原がこの作品で伝えようとする「お互いの間(ま/あいだ)を許容し合うこと」そのものなのだろうか、と考えた。
変わりゆく線『diss__olv_e』。
この後はまた江原にとんぼ返りして、青年団『思い出せない夢のいくつか』を観劇。青年団は同時期に『眠れない夜なんてない』も上演していたが、スケジュールの都合でどちらかを選ばざるを得ず、宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』をモチーフにしたというこちらの方をチョイスした。
木造のレトロな列車内で、向かい合って座る3人の男女。そのとりとめのない雑談から、人気歌手とマネージャーと付き人という関係がうかがわれる。歌手とマネージャーは、ときどきタバコを吸うために中座するが、そのたびに『銀河鉄道の夜』の登場人物のような人間と出会ったことが話題になるし、付き人は付き人で、ジョバンニの姿と重なるようなシーンもある。これは現実世界なのか童話の世界なのか、彼らは生きてるのか死んでるのか。舞台の進行とともに、物語の世界線がおぼろげになっていく。
岸田國士戯曲賞受賞作品『東京ノート』(1994年)とほぼ同時期に発表した作品だが、ラストに向けてその背景が明確になってくる『東京ノート』とは逆に、『思い出せない……』は話が進むにつれてむしろ謎が深まり、そのすべてが曖昧なまま取り残される。「現代口語演劇」という手法が、いろんなパターンの物語に応用できるということを、自覚的か無自覚かは不明ながらこの段階で提示していた、若き日の平田の策略家ぶりに唸らされた。なお、当初の演劇祭の予定では、本作をフランス語上演したベルギーの劇団を招へいし、青年団版と二本立てで上演するはずだったとのこと。来年以降、実現してくれたらと思う。
青年団『思い出せない夢のいくつか』。
青年団終演後、今夜の宿を取った豊岡駅に向かう電車が、あと45分は待たないといけなかったので、江原駅前広場で開催されていた「ナイトマーケット」でチャイを購入。この夜店も、ソーシャル・ディスタンス対策で入場者数を管理し、屋台の間も5メートル以上空いていたので、正直ちょっと寂しい光景だ。本当ならもっと店も人も密集して、アーティストも観客も混ざりあった、歓談のひと時が楽しめただろうにと想像し、少し切なくなった。
翌日は少し早目にホテルを出て、マームとジプシー『てんとてんを、むすぶせん。からなる、立体。 そのなかに、つまっている、いくつもの。 ことなった、世界。および、ひかりについて。』の会場[城崎国際アートセンター]から一番近い、城崎温泉の外湯[鴻の湯]へ。この日は連休中日ということもあり、城崎温泉は先週来た時よりも明らかに、道を行き交う車と観光客の数が増えている。先週来た時に、温泉に入れなかったリベンジを無事に果たした後、マームとジプシーを観劇した。
二つのテントが張られた舞台上には、数台の定点カメラが置かれ、舞台背後にライブ映像で映るようになっている。最初は、普通にキャンプを楽しむ若者たちの風景から始まったと思われた舞台だが、実は彼らの中学生時代の記憶の世界ということがわかってくる。ある事件をきっかけに家出をし、同級生のアドバイスを受けながら、近くの森でサバイバル生活を始めた女子中学生。なぜ彼女は家出をしようと思ったのか。その行動に、周囲の友人たちはどんな思いを抱いたか。その行動と心情が、マームとジプシーの名物である演技のリフレインを交えて語られていく。
マームとジプシー『てんとてんを、むすぶせん。からなる、立体。そのなかに、つまっている、いくつもの。ことなった、世界。および、ひかりについて。』。
世界は自分が想像するよりもはるかに大きくて、その中で自分は「点」のようにちっぽけな存在に過ぎなかった……と自覚した時の絶望的な思い。その狭い世界から飛び出そうと願う者もいれば、あきらめて静かにとどまる者もいて、その生き方を決めた時には必ず、何らかの形の別離が生じる。10数年以上生きていれば、恐らく誰もが体験したであろうこの失望と痛みを、懐かしくもかけがえのないモノへとメタモルフォーゼさせるのは、作・演出の藤田貴大の最大の得意技だろう。
藤田の作品はそれほど多くは観ていないが、この「懐かしい自意識」にあふれた世界は、これまで観てきた作品の中で一番迫ってくるものがあったし、涙を流している観客もいたという。本作の舞台となっている、大きな川と森がある「こんな町」が、偶然ながらも少し豊岡の風景と近い所があるので、よりリアリティが高まったのかもしれない。
人に勧められたそば屋が「団体のお客様が入って完売してしまって……」という、コロナ蔓延時には考えられなかった謝罪をされたなんてこともありつつ、豊岡駅前まで移動して、五反田団『いきしたい』を観劇。コロナのことがなければ、五反田団は外国のカンパニーと共同制作を行う予定だったそうだが、海外招へいの企画がすべて中止となったため、急遽前田司郎の新作を上演することになった。
舞台いっぱいにダンボールが積み上がる中、カップルと思しき一組の男女が引っ越しの準備をしている。不要なものを処分する段になって、女の方が「これはどうする?」と言って引っ張ってきたのは、彼女の前夫の死体だった。その処遇をあれやこれやと考えているうちに、その死体が突然動き出し、彼らと行動を共にするようになる。
五反田団『いきしたい』。
理屈に合わない主張を押し通したり、不条理なことも何だかんだ理由を探して正当化しようとする様を、間の抜けた笑いにしていく所は、まさに前田司郎節というべき作品だ。死体が動いてしゃべることに、強く疑問を呈するカップルの男に対し、女と死体はその理屈をことごとくねじ伏せていく。そうしていくうちに、実は男の方も「ここにいてはおかしい存在」ということが明らかになるという、ホラーめいた雰囲気になってくる。
「遺棄」された「死体」から「生き」ている「死体」になった男を通して、生きていることと死んでいること、さらに大雑把にいえば「いる」と「いない」の違いは一体何だろう? ということまで考えさせる、何気に哲学的な作品だ。身勝手かつ自己保身的な言動が不思議と嫌味にならない谷田部美咲、男の情けなさにあふれる岩瀬亮、前半の死体ぶりのリアルさに驚かされた浅井浩介と、役者陣の塩梅も見事だった。
というわけで「豊岡演劇祭」を前半・後半両方参加して実感したのは、一泊二日ではやっぱり観足りない気分になるということだ。二泊三日なら公式プログラムも全部チェックできて、フリンジ作品も1・2本追加できただろう。ただコロナがなかったら、もっと一日あたりの催し物の数も多かっただろうし、車がない観客のための臨時の移動手段もさらに設けて、より充実した観劇ハシゴができたと思われる。とはいえ、観光やグルメなどの楽しみは本当に尽きないエリアだったので、逆に温泉やアウトドアなどを中心に楽しんで、合間に芝居を1・2本観劇……という楽しみ方をしてもいいかもしれない。
演目的には、今回は状況が状況だけに、青年団や平田個人と縁のある団体で固めたので、必然的に首都圏の団体(青年団は今年豊岡に拠点を移したが)ばかりにスポットが当たる形になってしまった。ただこれは「芸術の一極集中に風穴を開け、文化の多様性を確保する」(フェスティバル閉幕の挨拶より)のが目標という平田にとっても、口惜しさが残るラインアップだっただろう。ただその中でも、大人から子どもまで楽しめるようなものもあれば、理解が難しいほど最先端のものもあり。ダンスもあれば会話劇もあり、さらにはメディアミックス的な舞台もあった。日本の演劇の多様性を見せるという狙いは、観客たちにアピールできたのではないかとも思う。
青年団『眠れない夜なんてない』。マレーシアの日本人向け保養施設に出入りする人々の、隠れた人間模様と心象を浮き彫りにする群像劇を久々に再演。
そして会期中に大きな事故は起こらなかった上、閉幕から2週間が経過して、参加団体・観客ともに、新型コロナのクラスターが発生しなかったことが確認された。平田が演劇祭の会見で述べていた「この時期にこの規模の演劇祭を安全に、感染者を出さずにやれたら、それが一番の演劇祭の評価につながる」という目標が、無事に達成されただけでも、大きな成果と言えるだろう。
よっぽどのことがない限りは、来年以降も開催されることは確実な「豊岡演劇祭」。来年は海外の人もそこに加われるようになって、国内外の多彩な地域のアーティストも、演劇ファンも、そして地元の人たちも、みんなが一緒になって盛り上がり、幸せになれるイベントに進化することを願っている。

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