『インソムニア』に、
鬼束ちひろにしか
作り出せなかった
歌詞世界の本質を見る
詞先から垣間見えるこだわり
『インソムニア』にはいくつもそれが見受けられるが、何と言ってもM1「月光」の《この腐敗した世界に堕とされた》の箇所である。ここの最後の《された》の“た”のあと、音符で言えば(たぶん)4つ音が下がっていく。コードも変わる。そういう歌詞の乗せ方も歌唱法も全然あっていいし、それが悪いとか、音楽理論的にどうだとか言うつもりはない。この他にもそういう抑揚を持った曲もあるだろうから、それが変だとか言う気はさらっさらない。それを先に強調しておくけれども、この箇所を聴く度に、ここの4つの音符には、やはり何か言葉がハマっていてもいいのではないかとは思う。誤解を恐れずに言えば、字義通りの言葉足らずな印象なのである。
だが、しかし──。かと言って、ここに単純に何か言葉を足したらいいのかと言ったら間違いなくそれは違う。そこに直接何か文字を乗せるにせよ、例えば《腐敗》や《世界》に何か形容する文字を足すにせよ、歌詞の意味は変わってくる。微妙に…ではあろうが、現在の姿を形成しない。また、それでは、この4つの音階をなくして白玉にして、コードも変わらないようにしたらいいのかと言えば、それもまた違う。この抑揚があってこそ、《この腐敗した世界に堕とされた》は成立しているのであるし、それがあっての「月光」なのである。鬼束ちひろは歌詞先行で楽曲を作るという。そこから分かることは、彼女は出来上がった歌詞を変更しないタイプであること。つまり、最初からそこにある世界観を崩さない人であると言える。“鬼束ちひろは“聴いてほしい”という願望が人一倍強いアーティスト”と前述したが、重ねて言えば、ピュアにファーストインプレッションを貫く人と言ってもいいだろう(その辺は、私は恐縮ながら未読なのだが、彼女の自叙伝『月の破片』にも記されているようである)。
M1「月光」以外では、M2「イノセンス」の《君は何処を見てるの?/僕の目を見ずに》や、M7「シャイン」の《曇った気持ちを葬ったわ》《忘却の空は晴れない》の箇所にも、彼女の特徴が見て取れる。M7「シャイン」では、特徴的なサビである《席を立てる日を日を日を日を日を》もその発露であろう。同じ言葉をこんなにリフレインするならひとつにまとめてしまったらどうだろう…と思わず口走りそうな感じだけれども、この箇所が楽曲にものすごい緊張感を与えていることは疑いようがなく、これもまたこれが大正解。本来の姿なのである。
サウンドメイキングの妙味
既発のシングルをアルバムに収録する際に新しいアレンジを施すこと自体はそう珍しいことではないけれども、これらは少し特異な印象がある。特にM3はもともとM7のカップリングである。別にカップリング曲をアルバムに収録する際にリアレンジすることがおかしいとは言わないが、2曲同時はあまり例がないと思う。まぁ、これは、2ndシングルである「月光」がヒットしたことによって、1stシングルの2曲をそのサウンドに合わせた…ということで間違いなかろう。なので、これはまだいい(という言い方も変だけど…)。M3、M7以上に興味深いのはM11である。
2ndシングル「月光」のリリースが2000年8月で、アルバム『インソムニア』が2001年3月発売と、おおよそ7カ月のインターバルが空いているので、“album version”を収録すること自体、これまた珍しいことでも何でもない。だが、「月光」で始まって、さらにシンプルなアレンジの「月光」で終わるというのはあまり類のないことではあろう。興味深い話がある。この「月光」はピアノのみ、ピアノとストリング、バンドサウンドの3つの異なるアレンジが存在したという。
アレンジャーの羽毛田丈史氏によれば、[ピアノだけでは強烈な歌詞には脆弱で、バンドでは楽曲の持つ美しさや儚さが損なわれる恐れがある]とのことで、シングルではピアノとストリングスのバージョンが採用されたそうである(この辺は、2004年に発売された鬼束ちひろのベストアルバム『the ultimate collection』のライナーノーツに掲載されているそうであるが、筆者は未読につき、[]の部分はWikipediaから引用させてもらった)。それが正式な見解であれば、『インソムニア』のM11では歌詞をことさらに強調したということになる。しかも、これをアルバムのフィナーレとしているのだから、彼女のアーティスト性、作家性のアピール以外の何物でもなかろう。本作はミリオンセールスを記録し、鬼束ちひろ最大のヒットアルバムとなった。ということは、このアピールは大成功だったと言っていいのだろう。1stアルバムにして、まさしく入魂の作品であった。
TEXT:帆苅智之