【仲村瞳の歌謡界偉人名言集】#111
シンガーソングライター・吉田拓郎の
言葉

作詞家、作曲家、編曲家、音楽プロデューサー、バンドマン、振付師、……そして、歌手。きらびやかな日本の歌謡界を支えてきた偉人たちを紹介するとともに、その方々が発したエネルギー溢れる言葉を伝えます。常軌を逸した言動の裏に、時代を牽引したパワーが隠されているのです! このコラムで、皆様の生活に少しでも艶と潤いが生まれることを願います。

人まかせにしない事が歌謡界と違うんだ
って思っている、それは大間違いなんだ

より

このインタビューが行われた、1977年は、吉田拓郎の音楽人生における、一つの節目だったのではないかと思われる。この年の6月、吉田は小室等に代わり、フォーライフの代表取締役に就任。同年4月に発売された7枚目のアルバム『ぷらいべいと』は、吉田初のカバーアルバムであり、石原裕次郎の「夜霧よ今夜もありがとう」や郷ひろみの「よろしく哀愁」など、自作の曲ではない、所謂、歌謡曲も披露している。しかし、当時、ニューミュージック界の大スターが、カバーアルバムを出すことも、ましてや歌謡曲を歌うことなど考えられないことだった。また、この年は、吉田のプロデュースにより、原田真二が歌謡界でデビューし、大ヒットへと導いている。吉田自身が、クリエイターであり、プレーヤーであり、アレンジャーでもあり、プロデューサーであり、レコード会社社長でもあった。今回の名言は、そういった経験によるものなのだろう。「人まかせにするところは、人まかせにしなくちゃ、自分はどんどんグレードアップしないもの」という言葉にも実感がこもっている。吉田こそが、ニューミュージックと歌謡曲の垣根を払拭した革命児であり功労者なのである。このインタビューでは、そんな当時の心境を知ることができる。吉田拓郎ファン必読!

吉田拓郎(よしだたくろう)
1946年4月5日生まれ、鹿児島県大口市出身。日本におけるシンガーソングライターの草分け的存在のひとり。1970年代当時、日本ではまだマイナー音楽だったフォークやロックをメジャー音楽に引きあげた立役者である。1970年、エレックレコード(インディーズレーベル)の契約社員となり、アルバム『古い船をいま動かせるのは古い水夫じゃないだろう』でデビュー。 1972年、CBSソニーに移籍。アーティスト兼プロデューサーとして活動する。移籍に合わせて発売した「結婚しようよ」が40万枚以上を売り上げる大ヒットとなった。続けて、同年に発売した「旅の宿」は、60万枚を売り上げ、オリコンチャートで1位を記録。その後、作曲の依頼も相次ぎ、モップスの「たどりついたらいつも雨降り」(1972年)、猫の「雪」(1972年)、森進一の「襟裳岬」(1974年)、かまやつひろしの「我が良き友よ」(1975年)、キャンディーズの「やさしい悪魔」(1977年)など、昭和歌謡史に残る名曲を数多く生み出している。作詞家でもあり、音楽プロデューサーでもあり、レコード会社の経営者でもあり、そのすべてにおいて日本の音楽界の革命的役割を果たしている。日本ポップス史におけるレジェンド中のレジェンドである。

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