松本白鸚が語る、日本初演50周年ミュ
ージカル『ラ・マンチャの男』の遍歴
の旅とこれから
私はブロードウェイ・ミュージカルだから日本で上演しなければならない、ということはないと思います。それはこの『ラ・マンチャの男』という作品が優れた作品であるから上演するのであって……。蜷川幸雄さんと『ロミオとジュリエット』(1974年)をした時に二人で話したんです。「これはシェイクスピアだから上演するんじゃないよね。いい芝居だから上演するんだよね」と。
私はその精神をいつも持っています。自分は歌舞伎の家に生まれて、歌舞伎をやらせていただいている上で、この『ラ・マンチャの男』をはじめとするミュージカルに出演していますけど、両方を行っているという気持ちはないんですね。いい芝居をしているという思いなのです。その思いで続けてきて、気がついてみると、この『ラ・マンチャの男』初演から50年経ってしまった。出演者の方々、関係者の方々、東宝と松竹の演劇人の良心がそうさせてくれたと会見では申しましたが、本当にそうです。そうでないと、これは上演できない。とても大事なことを言っているミュージカルなので、ぜひぜひご覧になっていただきたいと思います。
そうしたら、ブロードウェイからの話が来たんです。ジャーナリストの方々が「これは素晴らしい作品であるから見るように」と取り上げてくださって、なんとか息を吹き返した。みなさんの思いに何とか応えなくてはと思って。ただやはり一方では歌舞伎もありますから。生木を裂くわけではないですが、両手両足を持たれて、両方から引っ張られている感じがありましたけれども……とにかく今日の日を迎えられて、幸せです。
それからツレちゃん(※鳳蘭)。その前にツレちゃんとは『スウィーニー・トッド』というミュージカルで共演して、とても素晴らしかったことを覚えています。骨折なさったまま、本番を続けていらっしゃった。公演中一言もそのことを仰らなかったので、申し訳ないなと……。その後は松たか子。ずっとアントニアをやっていたんですけど、アルドンザをやって。それからこないだはキリヤン(※霧矢大夢)がやってくださって、今度は瀬奈じゅんさん。
……思い出は尽きないです。すでに亡くなった方もいらっしゃるし、初演時はまだ生まれていらっしゃらない方もいらっしゃる。長い長い歴史なんだなぁとつくづく思わされます。すみません、色っぽい話が出てこなくて(笑)
私が『王様と私』の王様役で初めて出演したのは22歳のときでございました。22歳の歌舞伎役者がミュージカルに出演するなんてことは、当時は皆無です。日本でミュージカルも年に1、2本ぐらいしかなくて、(劇団四季の)浅利慶太さんもまだミュージカルをやっていらっしゃらなかったと思います。もう50年以上前ですね。
菊田先生は僕に「染五郎くん、続けようよ。日本にミュージカルが根付くまで、続けてくれよ」と仰いました。随分無謀な考えですよね。歌舞伎をやって、ミュージカルもやるなんてね。「先生……」という声が喉まで出かかったのですが、若かったんですね、「やります」と言っちゃった(笑)
ただね、菊田先生がちょうど『風と共に去りぬ』を基にした『スカーレット』というミュージカルを書かれていて、それでブロードウェイにいこうとした矢先、私に『ラ・マンチャの男』のブロードウェイ出演の話が来たんです。「先生、ブロードウェイの話が来ました」と言ったら、「おめでとう」と。握手をするときの、先生の目がね、嫉妬と悔しさで(笑)。それでも「一緒にやろうよ、ミュージカルが根付くまで続けよう」と言った先生が、「おめでとう」と仰ってくださいました。
私は「見果てぬ夢」を歌う時に、いつもレクイエムのつもりなんです。親父(※初代松本白鸚)が東宝に移ったこと、菊田先生に出会えたことが『ラ・マンチャの男』の出演に通じているわけですから。「見果てぬ夢」を歌うときはいつも二人の男に対する、レクイエムだと思っております。
昔、祖父の『沼津』という歌舞伎をご覧になったアメリカの将校さんが、日本語も歌舞伎も全然わからないけれど、舞台から大きな悲しみの波が押し寄せてきたのを感じたと仰っていたという話があって。それと同じようなことが起こったんじゃないですかね。きっと何か、感銘、感動の波を舞台から受けたんじゃないですかね。ブロードウェイで『ラ・マンチャの男』を観た父は、その場で菊田先生に海外電話をして、「これを染五郎にやらせてください」と。まだその頃は『ラ・マンチャの男』をご存知の方は日本にはいらっしゃらなかったし、それで実現したという。親父が東宝に移っていなければ僕と「ラ・マンチャ」の出会いはなかったわけで、菊田先生との出会いももちろんなかったわけで。ご縁ですよね。
そして、親父が歌舞伎を教えた俳優さんが、(ブロードウェイ出演時に)私に英語を教えてくださったというのもまた運命というか、不思議な出来事ですよね。
そのエディ・ロールがブロードウェイで演出をしてくれて、その時にたった1日だけ、マチネ公演でサンチョをやってくれた時があったんですよ。死ぬ場面の時に日本語で「旦那様……死んじゃ嫌だ」と言った。日本語ですよ? ブロードウェイの舞台で! お信じにならないでしょうけど、一ヶ月間日本で稽古をして、ラ・マンチャを僕に植え付けてくれたエディ・ロールが。僕はこの気持ちを味わうために、ブロードウェイに来たんだなと思いました。
……その上で、アレンジャーとして心がけていること。例えば、専門用語ですね。最初に城を見つけた時に「旗をみよ、あそこにミャ〜オと書いてあると」というセリフがあって、「猫のお城」というのはヨーロッパの方々にとっては有名ですぐ分かることらしいんですね。でも、日本のお客様は旗に猫の印があっても、いまひとつ分からないので、そのセリフを削りました。
それから森岩雄さんと高田蓉子さんが訳してくださったのだけれど、やや直訳的でこなれていない日本語があった。それを直したり。僕が自慢する話はほとんどないんだけど、「白鸚の外国語の翻訳劇を見ていると、セリフがこなれている。翻訳劇のようではない」と仰っていただけることもあって。演出家として、あるいはアレンジャーとして、日本語に直す作業をいたしました。それは、日本のお客様にお見せするための一つの義務だと思っておりますから。
初演の時はそれは難しかったです。26歳ですからね。分からなかった。でもね、人生を歩んでくると、そういう目に遭わされてくる。人生で夢は敗れて、希望なんてものはなくて。実生活で経験するわけです。そして「あぁ『ラ・マンチャの男』というミュージカルで言っていたなぁ」なんて思い出したりして。さきほども申し上げましたが、この作品は青臭くて、あまり声に出して言いたくないようなテーマなんですよ。でも無くなっちゃうと寂しいもんだなぁという思いに至らせられる。だから、気づきのミュージカルとでもいいましょうか。自分の人生を経験したことで、色々と気づかされるミュージカルです。
それは分かりません。けどね、「ラ・マンチャ」のドン・キホーテは槍を、「勧進帳」の弁慶は杖を持っていて、二人とも旅をしているんです。かたや遍歴の旅、かたや逃避の旅と言ったらいいのかな。なんか、シチュエーションが似ていませんか。ですから、もうこれで終わり、一世一代かどうかはお客様の方で決めていただいて。役者にとってはね、思い出はいっぱいあるけれども、これから幕を開ける『ラ・マンチャの男』は新しい、まっさらな『ラ・マンチャの男』なんです。初めてご覧になる方もいらっしゃるので。
僕がいなくなった後も、チャールズ・ディケンズの『クリスマス・キャロル』のように、毎年必ず『ラ・マンチャの男』の火が灯ったら嬉しいなぁ。役者というのは欲があるんですよね。役者の芸というのは、その役者がなくなってしまうけれど、お客様の脳裏に残るような役者でありたい。それが役者としての務めでもあると思います。
・松本白鸚「俳優をやっていてよかった」 日本初演50周年記念公演ミュージカル『ラ・マンチャの男』製作発表レポート
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