【インタビュー】吉田栄作「25歳で願
ったように、50歳で描いたように ~
『Runners High』から『Annie』まで
~」

「人生が旅のように思える」と彼はいう。
高校時代にひらめいた、俳優になって音楽もやりたいという強い衝動も、人気絶頂の20代で選んだ、どこにいても自分のからだ一つで生きていきたいという願いも。50歳になった今は、それらの理想をリアルに実現させている。そして長いようで短い、人生という旅の途中で、出会った人や起きた事柄は、歌に置き換えて記録していく。愛と別れ、嬉しかったこと、苦しかったこと、すべてのイメージが微熱を発するように、音楽の中で輝く。

取材・文◎高山まゆみ
ーー吉田さんの最近のドラマや映画作品を見たのですが“その役の人としてそこに居る”という芝居のできる役者さんになっていらしたのだなと、あらためてびっくりしました。カッコイイなと思いました。

吉田:ああ、ありがとうございます(小さめの声で)。

ーーすごく考えて、繰り返し演じて、そういう積み重ねの上でしかできないと思うんです。自分でも努力をしてきたなって思われますか?

吉田:ま、努力っていうのは、イチローみたいな人のことなんだろうなって思うんですけど(笑)。いままでの俳優としてのキャリア、経験を積み上げてきて、いまの自分があることは間違いないことなんです。プラス私生活でも、いま僕50になったんで、50年間分の人との出会いとか別れがあって、嬉しかったこと、イヤだったこと、そういう全部ひっくるめて全身で演じようとしている。それを良しと信じている自分が、カメラの前とか、舞台の上に立っているんだと思うんですね。

ーー役者として、自信を持ってもいいって思えたのはいつぐらいでしたか?

吉田:いやいやいや、なってないすから(笑)。自分の芝居を見た時に、カッコつけた言い方すれば“BEST IS NEXT”だなって、そう思うことが目立っちゃうんです。う~ん。ときどき、ドーン!と、自分の今の最高の玉で行けたかなって思うことあるんだけど。それって不確かですからね。でもどっかナルシストなのか、結局、そういう日の酒はうまかったりするんですよ。でもあんまり評価を気にするより、自分で考えて、自分で進んでいくっていうことが、何よりも大事っていうことでしょうね。

ーーこうやって話すと、吉田さんてツッパリでもないし、タカビーでもないですよね(笑)。若かった頃の発言は、若かったからこそだと思うのですが。

吉田:完全に自分でキャラを作ってましたよね。結局、当時はただ若さと勢いで、鏡で自分を見て、こいつがこういうことをすれば面白いんじゃないかっていう、演出が入ってました。たとえて言うと、黒いアイドルがいたっていいじゃないかと(笑)。

ーーええっ。じゃ、世間の反応を、イヤだなとも思わずに?

吉田:思わなかったです。イヤだったのは、むしろチームとしては抑えようとしていたので、なんでわかってくれないんだっていうのはありましたね。そこがプロジェクトとして成立していれば、僕自身は、もっとやり続けられたかもしれないですよね。みんなでやった後に「あ、すいませんでした」って謝るようなね(笑)。

ーーそれには、芸人さんたちの台頭を待たないと、いけなかったかもしれないですね。

吉田:そうですそうです。ちょっと、早かったかもしれないですね、やり方が。だから結果、自分がつらくなっちゃったんですよ、自分じゃない自分を演じてたので。

ーーそれもあってアメリカに行かれたんですか? 大成功していた26歳で。

吉田:だいぶ独り歩きしちゃったなという反省点はあったんで、本当の自分として帳尻を合わせたかった。あと、いろんな海外に行かしてもらって、世界はこんなに大きいのに、日本でもてはやされたとしても、それがなんなんだって思うようにいつしかなりまして。それと撮影やレコーディングで海外に行くと、現地の言葉をしゃべられる日本人のコーディネイターさんがいらっしゃるじゃないですか。彼らの生活とか生き方を見てると、からだ一個で生きてる感じがすごくカッコよく思えた。それに比べると、自分の生命力は弱いなあって。守られて、通訳されて“なんとかプリーズ”ぐらい、自分で言えばいいだろうって。そういうこともできる人間になっていきたいなと思ったことも、休養の大きな理由でしたよね。

ーー向こうではどんな生活を。

吉田:お金は稼いでいったけど、無駄づかいしてると、一気になくなっちゃうものだろうから。アパートはウエストハリウッドの800ドルくらいの部屋で自活して、車なんか中古車の5000ドルくらいの、50万円くらいのジープを買ってました。それで英語で演技の勉強をして、ライブハウスに通って、ミュージシャンの友達を作って、スポーツして、毎日ように映画を見に行った。安いものは1ドルで見れたし、英語の勉強にもなった。

ーーみんなが思っていた、ブイブイの吉田栄作像とはぜんぜん違いますね。

吉田:そもそもこっちが本物なんで(笑)。

ーー俳優は、演じるものではなく、その人になるものだと学んだのもその時期ですか。

吉田:“Do not act please.”だったか、そういう教材があるんですよ。演技の教材なんだけど、演じないでくださいっていう。もうその一言で、なるほど、向こうの名優たちの素晴らしい芝居っていうのは、確かにそうだなあって思うし。そこに近づきたい、そこに行かなきゃなあって思ったキッカケでもありましたね。

ーー29歳で帰国してからは、NHKのドラマに出たことも大きかったとか。

吉田:大河ドラマや社会派の作品だったり、それまでやってきたキャリアより、もう少し深くいろんなことを考えながら、ドラマをできるチャンスが僕に与えられた。それが大きいなと思います、1998年ぐらいからなんです。で、2006年ぐらいから、舞台というものに出ていくんです。またこれも、ひとつの役とか芝居というものを、数々の演出家や共演者と掘り下げる作業という意味では、今にとてもつながっていると思います。僕としてはやっぱり映像の俳優になりたかったので、舞台での経験もすべて、映画や、テレビドラマの仕事に返ってくればいいと思っている。

ーーそもそも、モデルになるオーディションから出てこられたのですよね?

吉田:じゃないんです、ウィキペディアでさえそうなってるんですけど。もともと高校2年の時から俳優になりたくて、東京の俳優養成所に通い始めたんです。高校を卒業して、東京でアルバイトをしながら自活して、19歳の時にタカキューというアパレルが主催する『ナイスガイ・コンテスト』でグランプリを獲ったことが映画デビューにつながるんです。

ーー俳優になりたかったのが先なんですね。

吉田:そうです、同時に歌手もやりたかったんですよ。だからキャリアの始まりとしては、俳優養成所に通ったのと、友達とバンドを組んだことですね。これ同時に、高校2年生の16歳の時でした。

ーーなぜ俳優になりたいと?

吉田:あの、高校2年のバスケット部が休みの日に、当時のガールフレンドと小田急線で新宿まで遊びに行ったんです。新宿センタービルの52階にカフェがあって、彼女がケーキ食べ放題があるという。じゃ、そこに行こうじゃないかと。で、窓際の席に座って下を見ると、スクランブル交差点があって、ワーッて人が通っている。ああ、人って小さいんだな、自分もあそこに行ったら、あの中の点なんだなって。ならば自分は死んだ時に、記録に残るような生き方がしたいなと思った。それがなぜか俳優とか芸能界っていうものと、直結したんですよね。

ーー何かをずっと続けていらっしゃる方って、若いときにひらめいてずっと続けていらして、大成される方が多いですよね。吉田さんもそうだったんですね。

吉田:だからそっからのことを考えると、30年以上も経ってるんで、非常に感慨深いのと。冒頭での努力っていう話に戻ると、たぶんそれがない人間は、絶対にここに残れない。やっぱり基本、俳優とか芸能界って淘汰されていく世界だと思うので。

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