the band apart
- the Homeground 第27回 -
ライヴ活動を行なうアーティストの拠点となるライヴハウス。思い入れ深く、メンタル的にもつながる場所だけに、当時の想いや今だからこそ話せるエピソードなどを語ってもらった。もしかしたら、ここで初めて出る話もあるかも!?
ザ・バンド・アパート:1998年結成。04年に自らが運営する“asian gothic label”での独立を果たす。ツアーでは両国国技館や幕張メッセでのライヴを成功させ、毎年数々の野外フェスで多くのアーティストとの共演を重ねながら自らのサウンドを確立してきた。さらに、レーベル所属のMock Orangeとのアメリカツアーや、台湾、フランスでのライヴを行なうなど、ワールドワイドな活動も展開している。結成20周年を記念し、18年には初のトリビュートアルバム『tribute to the band apart』と再録ベストアルバム『20 years』を同時リリースした。the band apart オフィシャルHP
Guest:荒井岳史(Vo&Gu)、原 昌和(Ba)
ライヴハウスで経験したことが、
マイペースにやってる自分たちの
ベーシックや基礎作りになった
もともと今のthe band apartになる前は、ヘヴィメタルのカバーをやっていたとのことですが。
原
家で遊びでやってた感じかな。『ラスト・イン・ピース』(メガデスのアルバム)から、「ホーリー・ウォーズ」とか「Hangar 18」もやったような気がする。
途中でドラムの木暮さんが脱退したエピソードも。
原
急にラッパー宣言をしてフェードアウト…フェードアウトじゃねぇな。カットアウトだよ、あれは(笑)。
荒井
というか、脱退も何もないんですよね(笑)。若い時の話だから。“the band apartっていうバンドで頑張っていくぞ!”みたいなことは今でもしたことがないですし、もともとそういうスタンスでやってなかったから。辞めるというよりは、そっちに夢中になっちゃった感じかな。
荒井
1回違う人が練習に参加したこともあったよね(笑)。
では、the band apartとして4人でライヴハウスに出始めたのはいつ頃でしたか?
荒井
二十歳くらいの時です。僕の地元(大塚)のライヴハウスを1年ちょい経て、それでブッキングか企画で声を掛けてもらって高円寺GEAR(現在は閉店)に出始めて、そこの店長のナオトさんって人とすごく仲良くなりました。
原
“いいね”って言ってくれたのがGEARだけで、他では“あんな下手くそなバンド絶対に売れねぇ”とか言われてたけどね(笑)。それでもナオトくんは好きだからって推してくれて。
荒井
一番最初に所属することになったLimited Recordsを紹介してくれて、そのお陰で今があるみたいな感じなんで、最初の道を作った人ですね。
原
そのあとも、いろんな人とつながるきっかけになった人でもあるかもな。
どういったところを気に入ってくれていたのですか?
荒井
これが結構謎なんですよね。つい最近話した時には、初めて観た時に“他にこういう人たちはいないと思った”みたいなことは言ってくれてましたけど。当時は高円寺GEARがホームグラウンド的な感じでずっとやってたんですよね。ナオトさんがすごく気にかけてくれて、しょっちゅうライヴに呼んでくれたり、いろんなバンドと対バンさせてくれたりして。だから、あの当時は結構いろんな人と対バンしてた。それこそdustboxとかもやったことあるよね。そういういろんな出会いがあったところで、その時に対バンしたバンドの人ともまだ交流があったりします。
原
ナオトくんが新宿ANTIKNOCKに行ってた時代もあるよね?
原
ANTIKNOCKに行ったら、次はANTIKNOCKでのライヴに呼ばれるわけで。
荒井
(笑)。それでナオトさんがshibuya CYCLONEに行ったら、CYCLONEに呼ばれて。CYCLONEでもよくやったよね。そう言えば、あの時、自分たちでフライヤー作ってたじゃん。そのフライヤーにGEAR、GEAR、GEAR、GEAR…って、GEARの名前の多さ(笑)。
原
GEAR、GEAR、GEAR…高円寺20000V(高円寺20000Vは現在は東高円寺に移転し、東高円寺二万電圧に名称を変更)。“20000V”を間違えて“2000V”になってたり。
原
だんだん減ってって、最後は“2V”に…。でも、“2000V”って書いてあっても、“20000V”だって分かるところがいいよね。
(笑)。では、よく覚えている当時のライヴハウス事情ってありますか?
原
その時代、自称イベンターの女が沸いた時期みたいなのはありましたね。その頃って自分たちも血気盛んじゃないですか。そこで、自分が女だということを利用して謎のライヴを開催している人がいっぱいいたなっていう。その人がスキンシップ系だったんですけど、打ち上げで膝触ってくる系で。今やられたら…まぁ、思い出すとそういう企画でも出てたなっていう(笑)。
原
今だったら“いらない”って言うけどね。あとは、“the band apartを観たくて…”って企画に呼んでくれた人がいたんですよ。“だったら、ライヴに来りゃいいじゃねぇか”って。今思えば分かんないことだらけだったよね。イベンターを名乗っていつも呼んでくれてたあいつは何だったんだろうな?って。
荒井
今でもたまに話題になるけど、そんなライヴハウスでやってる当時に、俺たちはそのナオトさんがいたからまともなところに行けました。なんかね、変な謎のレーベルオーナーもいたんですよ。話しかけてきて、いきなりありなしを語って、“ありだね”って言ってくるとか…。
原
その時は“ありだね”って言われたら、単純に嬉しかったけどな。
荒井
嬉しがってたけど、今思うと面白い。“そもそも誰?”っていうね(笑)。でも、それは時代ですよね。俺らがバンドをやり始めた頃はバンドブームでバンドの数が異常に多かったんで。
原
企画をやってた奴が“いろんなものを観れていい”“うちはノージャンルだから”って大義名分みたいなこと言ってて。よく考えたら、“お前に何のこだわりもねぇだけじゃねぇか!”って思った時もあった。そういう印象深いこともあるけど、今の若い子は騙されなさそうだもんね。
荒井
何回も言うけど、そういうのがよくあった時代というか。でも、面白かったですよ。
原
“下北沢SHELTERに出られるのはすごい!”みたいなこともあったね。
荒井
それもよく知らなくて、周りにすごいすごいって言われて、“すげぇのか!?”っていう感じだったよね。超世間知らずだった。
原
ライヴハウスが昼にオーディションをやってたんだよね。でも、受けたことないな。
荒井
うん。何となくでSHELTERにも出させてもらってたし。
原
本当に1回も出たことないバンドは、まずはオーディションからだった。だけど、企画で呼ばれたりしたらオーディションも何もないわけで…それで企画で呼んでもらって、1回出ちゃったから、もうオーディション受けないでいいっていうことに。どんな音楽をやるのか?って、バンドを把握する感じなんだろうな。
荒井
今みたいに情報が早い時代じゃないから、バンドを知るまでにだいぶ時間がかかったし。でも、まずは4人ともそんなに情報を拾おうと思わなかったっていうのが大きいと思うんですけど(笑)。知ろうとしてなかったから、“どこのライヴハウスがすごい”とかがあっても分からないし。知らないでやってたのが、逆に良かったのかな?
原
経験しないと理解できなかったじゃん。今は参考になるものがいっぱい落ちてるけどね。
荒井
はっきり言って、今じゃなくてその時代で良かったですけどね。それが今、マイペースな感じでやってる自分たちのベーシックや基礎作りになった気がするんで。個人的にですけどね。
原
もちろんライヴハウスって場所じゃなくてそこにどんな人がいて…ってとこもあるよね。今回の話だと、ナオトくんっていう人間にいろんなライヴハウスに連れ回されたなぁっていう感じかもね。
荒井
俺たちはそれが顕著だった。その1個の出会いで結構いろいろしてもらったから。でも、“高円寺と新宿はすごい”と思ってた記憶もあって。
原
うんうん。だから、よく考えたら勘違いでもあったわけで。でも、それがトキメキにはなってたよね。全部が真実じゃないほうが面白いっていうのはある、経験上ね。まぁ、もういいかな。騙されるのは…。
そんなthe band apart は20周年を迎えるわけですけど、始めた当時はこのバンドが20年続くと考えてました?
いえ、思わないです(笑)。“いつの間にか20年”という感じですかね。
原
まぁ、振り返ってみて思うことだよね。“ずっとバンドやっていこうな”なんていう話にはならなかったしな。
荒井
ライヴの前にも掛け声とかはしないバンドなんで、俺たち。当然、先のことについても確認事項もないですからね(笑)。
それはこれからも変わらず?
荒井
俺の願いはただひとつ、みんな身体には気を付けてほしい(笑)。
原
いや~、やっぱりこの先って考えられない。バンド以前に生きてるかどうかも分からないわけだから(笑)。
荒井
正直、俺もそう思う(笑)。まぁ、the band apartはこれからもこういう感じだと思いますよ。