書店員Xからの手紙。文庫Xの成功は感
性の衰退を象徴する/前編

書店員Xからの手紙

先日、ミーティア編集部にあるメールが届いた。差出人は、以前ミーティアが公開した記事「文庫X」の仕掛け人である『さわや書店』の書店員、長江貴士(ながえたかし)さん。
メールには、「文庫X」が生まれた背景や「文庫X」が及ぼした影響など、現場である書店で何が起こったのかが、ナマの声で綴られていた。その場に居合わせた人間にしか書き得ない事実と具体的な数字なども記されており、よりリアルに「文庫X」を理解する手助けとなった。しかしもっとも印象的だったのは、「文庫X」が及ぼした影響とそれについて危惧する長江さんの態度だった。なぜなら彼は、こんな言葉で書き始めていたからだ。

「文庫X」の成功は、我々の感性の衰退を象徴するものだと思います。

「文庫X」が「我々の感性の衰退を象徴するもの」?とても挑発的で興味をひかれる書き出しだが、いったいどういうことなのか?なぜ「文庫X」が「我々の」感性を象徴しているのか?そもそも「文庫X」を企画した本人が、その成功を「感性の衰退を象徴するもの」だと言うのはなぜなのか?

メールを読むうちに、「文庫X」をめぐる議論はもう少し深める必要があるのではないかと、そう思うようになった。そこで本記事では、書店員である長江さんからのメールを随時引用しながら、改めて「文庫X」とは何だったのかを考えていく。

Text_Sotaro Yamada

「文庫X」は、「先入観」を乗り越える
ための企画

詳しくは上記の参考記事に書いてあるが、まずは簡単に「文庫X」とは何だったのかおさらいしよう。
「文庫X」とは、岩手県盛岡市にある「さわや書店フェザン店」が行ったある施策のこと。それは、本の表紙、タイトル、内容を隠して売るという試みだった(ビニール包装のため中を確認することもできない)。その代わり、ジャケットは書店員による「どうしてもこの本を読んでほしい」という熱い文章で埋め尽くされ、その文言は裏表紙にまで及ぶ。

本の正体は、ジャーナリストの清水潔による『殺人犯はそこにいる 隠蔽された北関東連続幼女誘拐殺人事件』(以下、『殺人犯』と表記する)。栃木県足利市と群馬県太田市で起きた未解決事件を扱ったノンフィクションで、かなり重い内容の本だ。これを「文庫X」として販売した「さわや書店フェザン店」では、一日に最大で206冊、4ヶ月半の間で5034冊売れるなど、企画が大当たりした。やがて「文庫X」は全国650以上の書店にも広がりを見せ、タイトルが公開された後も売れ続けている。『殺人犯』は売り上げ約30万部を超えるという、ノンフィクションとしては異例の大ヒットになった。

そしてこの「文庫X」の考案者が、メールの差出人である書店員X=長江さんである。

そもそも長江さんは、どのような経緯でこの『殺人犯』を知ったのだろうか?

長江 : 「『殺人犯』という本の存在は、単行本の時点で知っていました。凄い本がある、という噂と共に聞いてはいました。僕はノンフィクションを結構読むのですが、何故かその時点では読んでいませんでした。ある日出張の折に、新潮社にお邪魔する機会がありました。その際、もうすぐこんな文庫が発売になるんですよと、当店の担当営業の方からいただいたのが『殺人犯』のゲラ(発売前の原稿を読めるように出力したもの)でした。とはいえ、それでもすぐに読もうと思ったわけではありません。僕は日々、「売れそうな本」を探すために本を読んでいます。この「殺人犯はそこにいる」という本は、読む前から、売るのは難しそうな本だな、という感覚がありました。それで、ゲラをもらいはしましたが、すぐには読みませんでした」

書店員からすると、「売りやすい本」と「売るのが難しい本」というものが明確にあるのだそう。では、なぜ『殺人犯』は「売るのは難しい本」だったのだろうか。

長江 : 「まず、書店の現場で本を売る者として、ノンフィクションというジャンルはなかなか売れないという実感があります。色々理由はあると思いますが、ノンフィクションは現実を切り取る以上、その切り取られた現実にそもそも興味がなければ手を伸ばさない、ということが一番大きいと思います。たとえば、野球のノンフィクションであれば、野球が好きな人は買うかもしれませんが、そうではない人は見向きもしないでしょう。『殺人犯』も、そのまま売るだけでは、事件モノのノンフィクションをよく読む人の手にしか届かない、と思ったんです。
ページ数もハードルを上げると思いました。『殺人犯』は500Pを超える本です。ただでさえ、ノンフィクションというジャンルはあまり読まれないのに、その上で500Pを超える分量の本に手を伸ばしてもらうのは難しい、と思ったんです。
さらに、これは出版社や著者の方には申し訳ないですが、表紙やタイトルに興味を惹く要素が薄いと感じてしまったんです。事件現場の地図と、ちょっと怖そうなタイトル。そういう本を、ノンフィクションを普段読まない人の手にまで届かせるのは、至難の業だと感じました」

長江さんの話のポイントは「先入観」だ。
ノンフィクション、怖そうな事件モノ、自分とは関係のない世界、500p以上もあって読むのが大変……などなど、わたしたちの日々の判断は様々な「先入観」に縛られて形成されている。こうした「先入観」は役に立つこともあるが、時にわたしたちの不利益となったり、見るべきものを見過ごしてしまう原因となったりする。

真に価値のある本があり、その本をどうしても多くの人に届けたい、しかしこうした「先入観」がジャマをして、届けるべき人たちにこの本が届かない。たとえ書店の店頭で『殺人犯』が自分の視界に入ったとしても、そうした「先入観」があることによって、この本を手にとってもらえる可能性はゼロに近くなる。こうした先入観を乗り越えるためにはどうすればいいのか。

そう考えた時、「表紙を隠す」という方法に行き着いたのだった。

『殺人犯』の衝撃

長江さんは、初めて『殺人犯』を読んだ衝撃を次のように語る。

長江 : 「『殺人犯』を読みながら、僕はずっと思っていました。何なんだこれは、と。ページをめくりながら、身体の内側から叫び声が次から次へと湧いてくるかのようでした。自分に何が出来るわけでもないのに、何かしなくては、という衝動を抑えることが難しく、日本という国が抱える恐るべき闇をまったく知らずに生きてきたことに衝撃を受けました」

筆者もほぼ同じ気持ちだった。『殺人犯』は恐ろしい本だと思ったし、読んでいる間はかなり気が滅入った。ノンフィクションではなく、この本を小説だと思って読もうとしている自分に気付いた。しかし紛れもなくこれは現実に起こったことであり、今でも続いていることでもある。

長江 : 「『殺人犯』を読むことで僕らは、僕らが生きている社会の根底が崩壊しているのだ、という事実に気づかされることになります。この点こそが、僕が『殺人犯』をどうしても読むべき本だと感じた理由であり、何がなんでも手に取ってもらうために表紙を隠して売るというやり方を考えだした理由でもあります。
僕たちは、「警察や裁判所は、そこまで酷いことはしない」という前提を持っていると思います。国民を騙したり事実を捻じ曲げて人の一生を奪ったりするようなことはしない、そんな風に信じていると思います。そういう信頼がなければ、暴力の権限を警察に委ねたり、争いごとの決着を裁判所に任せたりするなどということは出来ないはずですから。しかし、本書を読むと、その信頼はガラガラと崩れ去っていきます。『殺人犯』で描かれるのは、保身のために事実を捻じ曲げ、メンツを保つために個人の人生を容赦なく奪う国家権力の姿でした。
そしてこのことは、決して他人事ではないのです。何故なら、「足利事件」の犯人として逮捕された菅家氏に起こった出来事は、僕たち一人ひとりの身にいつ起こってもおかしくないものだからです」

恐ろしいことだが、『殺人犯』を読み、菅家氏が逮捕されたいきさつを読めば、長江さんの言っていることが大げさではないとわかる。菅家氏は特別な人間ではない。わたしたちと同じようにごく普通の毎日を過ごしていた普通の人間の一人である。ということは、わたしたちの誰かが菅家氏であってもおかしくなかったのだ。

長江 : 「僕たちは普段、多くの前提を無条件に受け入れた状態で生きています。「水は0℃で氷る」というような科学的に正しい前提もあれば、「大学在学中に就職活動をし、卒業したらすぐに働く」という漠然とした社会の共通理解のような前提もあります。そういう前提を疑問なく受け入れることで、僕たちはあちこちで立ち止まらずに生きていくことが出来ます。それは大きなメリットです。しかし、僕らが無条件に受け入れている前提は、いつでもどこでも必ず正しいと保証されているものではないのです。そのことはきっと多くの人が頭の片隅で理解していながら、しかし考えることが面倒だというような理由であまり精査されることがないのではないでしょうか。そして『殺人犯』は、そんな僕らの態度に警鐘を鳴らす一冊だと思うのです」

だからこそ長江さんは「文庫X」として『殺人犯』を売りたいと思った。もっともっと多くの人に読んでもらわなければならない本だと信じた。

その結果、「文庫X」は大成功し、『殺人犯』は30万部を超えるヒットになった。

「文庫X」は感性の衰退か

さて、『殺人犯』というノンフィクションが「文庫X」という仕掛けで売れたということは、普段いかに読者が強い先入観を持って本を選んでいるかということの裏返しでもあるかもしれない。だとしたら、「文庫X」という企画の成功は、喜ばしいことばかりではないかもしれない。そんな想いが、冒頭に紹介した長江さんの一言に表れている気がする。

「文庫X」の成功は、我々の感性の衰退を象徴するものだと思います。

もしも、わたしたちの感性がもっと磨かれていて洗練されていたのなら、「文庫X」などという企画は必要なかったかもしれない。そんな仕掛けをしなくても、読まれるべき価値のある本は読まれるはずだし、売れるべき本は売れるはずだ。洗練され磨かれた感性の持ち主は、自らそうした本を探し、自力でたどり着くからだ。しかし、現実はそうではない。良いものばかりが売れるわけではない。「売れる」ためには様々な要因が複雑に絡み合う必要があるし、もっとありていに言えば、よりイージーなものの方が売れる傾向はますます進んでいるように思える。

また、本のライバルは本だけにあらず、その他のあらゆる娯楽との競争が起きている。文章はネットで無料で読めるし(この記事だって無料だ)、電車の中でふと顔をあげて見れば、本を読んでいる人は少数派だろう。SNS、ゲーム、音楽など、あらゆるコンテンツと時間の奪い合いが起きているのが現代だ。こうしたコンテンツ豊富な(過剰な?)時代において、本当に自分が必要としているものを摂取している人はどれくらいいるのだろうか。

人が一日に接するコンテンツのほとんどは、「偶然目に入ってきたもの」や「身近な、あるいは有名な誰かがすすめていたもの」ではないのか?だとしたら、そこに自分の考えや好みはどれほど反映されているのか?気づかないうちに、わたしたちは、自分でものを考えたり感じたりすることから、遠ざかっているのではないだろうか?

そうした危惧が、長江さんの「感性の衰退」という言葉から読み取れる。この刺激的な言葉について、長江さんはこう補足している。

長江 : 「この「文庫X」という形で『殺人犯』を手に取った方の多くが、こんな風に語っていたのが印象的でした。「『殺人犯』がそのまま売り場に置かれていたら、絶対に買わなかった。けど、『殺人犯』を読めて本当に良かった」。こういう感想を引き出せたことが「文庫X」という企画の価値であり、存在意義だったと思います。「文庫X」を買ってくれた多くの方が、『殺人犯』の表紙を隠した意図を理解し、あれだけ話題になったにも関わらずネタバレがほぼ存在しないという状況が生まれたことからも、「文庫X」という企画の真の意味を読み取ることが出来るでしょう。そして、買ってくれた方々からのこの反応から、僕らは自身の感性の衰退を予感しなければならないのだ、とも思います。『殺人犯』がそのまま売り場に置かれていたら絶対に買わなかった、という反応はつまり、僕たちが日々先入観に侵されていることを示唆します。『殺人犯』という、誰の心も揺さぶる本が目の前に存在していても、その本に対する先入観が邪魔をして僕たちはその一冊にたどり着けない。そういう実例を、「文庫X」という企画が可視化させた。このことは常に意識しておかなければ、僕たちの感性はどんどんと衰えていってしまうでしょう」

(後編に続く)


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書店員Xからの手紙。文庫Xの成功は感性の衰退を象徴する/前編はミーティア(MEETIA)で公開された投稿です。

ミーティア

「Music meets City Culture.」を合言葉に、街(シティ)で起こるあんなことやこんなことを切り取るWEBマガジン。シティカルチャーの住人であるミーティア編集部が「そこに音楽があるならば」な目線でオリジナル記事を毎日発信中。さらに「音楽」をテーマに個性豊かな漫画家による作品も連載中。

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