【インタビュー】当山ひとみ、これまでのキャリアを振り返る
当山ひとみ、愛称はペニー。1980年代からポップスを聴いてきた人にはお馴染みの名前だろう。バイリンガル歌手の先駆けとして、ソウルフルなナンバーやファンキーなナンバーからアメリカンTOP40に呼応するようなポップスまで、(当時の)日本人が憧れた世界観をいとも容易く手にしてきた印象があるシンガーだ。
2010年代に入ると、「和モノ」と呼ばれる日本人のレコードでDJプレイするシーンが盛り上がり、その中で様々なアーティストやレコードが再発見されていく。その中で注目されたのがペニーの「SEXY ROBOT」だった。1980年代のブラックミュージックの最先端を採り入れた作品が多かったペニーのレコードには、DJ的に”使える”作品が多く、アナログ・レコードは高騰していく。それに輪をかけたのがシティポップ・ブームだった。
その流れで2015年にリリースされたのが、King Of Diggin'ことMuroによる2枚のリエディット版シングル「Kissしたい / セクシィ・ロボット」「ラヴ・コンペティション / エキゾティック横顔 」であり、ライターの金澤寿和が主宰するLight Mellowのシリーズからリリースされたコンピレーション・アルバム『Light Mellow 当山ひとみ』。2018年11月3日には、「レコードの日」の目玉アイテムとして「NEXT DOOR」と「SEXY ROBOT」の2枚がアナログLPで待望の再発、話題となった。
しかし、そういった盛り上がりを当のアーティスト本人は知らないものだ。そこで、DJやレコードのシーンでの盛り上がりをアーティスト本人と繋げようという目的で筆者が立ち上げたのが、<City Pop Connection>というイベントだ。前回の<藤原美穂 sings Chocolate Lips>に続き、今回で4回目となる。
3月7日に開催する<当山ひとみ sings SEXY ROBOT>は、ファンキー&メロウなシティポップ的な楽曲ばかりで、普段のライヴとはまったく違う選曲。キーボードには、AORグループ、ブルーペパーズのメンバーであり、最近では高中正義のツアーメンバーにも抜擢された若手の注目プレイヤー井上薫も参加。この日のみのスペシャルメニュー・スペシャルメンバーでお届けする。
そんなペニーのこれまでのキャリアを振り返るインタビューをお届けする。カラッと明るい性格で、今でも、英語のイントネーションが混ざったり、言葉の並びが英語的だったりと、やっぱり英語圏の人なんだなという印象を持った。
■日本語で歌うということ自体が考えられなかった
──どんな環境で育ったんですか?
ペニー:沖縄のときからずっとアメリカンスクール。英語でしか生活してないの。
──家族も全員英語ですか?
ペニー:お父さんとお姉さんはアメリカンスクール出身だったので、友達がみんな英語圏の人。お母さんは沖縄の人で、お母さんの親戚は沖縄語だけど、私が沖縄にいた頃はまだアメリカだったので(1972年に返還)。それからアメリカ(本土)に渡ったの。
──アメリカに住んでたこともあるんですね。
ペニー:沖縄は中学2年までで、中学からハイスクールまでがアメリカで。オークランド・ハイスクール。実家がオークランドなので。だから「SFO-Oakland(サンフランシスコからオークランドへ)」は私の経験を書いたの。よく(学校を)みんなでサボって車に乗ってサンフランシスコに(笑)。あそこは16歳から免許が取れるから。
──アメリカにはいつまでいたんですか?
ペニー:18ぐらいのときに日本に来たの。お姉さん(マイラ・ケイ)が日本にいたから。その後もう1回戻って、また来てっていう感じ。「お姉ちゃんが生活の面倒みてるから、お前もなんかやれよ」って。でも日本語喋れないから「え~、私なにやればいいかな」お姉ちゃんが歌をやってたから「お前も歌いなさい」みたいな感じで歌い始めて、だから歌手になりたいとかはぜんぜんなかったの。
──そんなに喋れなかったんですか?
ペニー:だって、ずっと英語圏だから。だからお姉ちゃんが、かわいそうだから自分のステージで1曲でも歌いなさいって歌わせてくれのがきっかけ。だけど、すごいヘタだったの。それなのに、最初にデビューしたのは私だから、不思議だなって。やりたいって思ってたわけじゃないし、デビューの話も2年ぐらいお断りしてた。日本語で歌うということ自体が考えられないので、できませんって言ってたんだけど。あの頃はバイリンガルが人気だったんだと思う。ここにプロデューサーの兼松("フラッシュ"光)さんが目をつけたのかなぁ。
■デビューのきっかけは井田リエのバンド
──スカウトのきっかけは何だったんですか?
ペニー:井田リエってヴォーカリストがいて、すごく歌がうまくて憧れだったの。オークションっていうすごいディスコバンドだったのね。ホーンセクションがいてファンクなんかをやってるバンド。そのコーラスが必要だっていうので、私はコーラスになった。その兼松さんが井田リエさんをシンコーミュージックからデビューさせようとしてて、ライブのときに、私にもやりませんか?って。それがきっかけ。でも私は、ヤダヤダ、オリジナルは難しそうだし、日本語も難しそうだし、米倉(良弘・ギター。後にペニーのブレーンとなる)さんも厳しそうだし、ソロだと独りでしょ。やっぱり自信がないっていうか、そこまでしてやりたいとも思ってない。でもみんなに相談したらすごいラッキーだよって言われて。やるだけやったら?辞めることはいつでもできるしって。
──井田リエさんとはどういう繋がりだったんですか?
ペニー:オークションのベースがやめて私の彼氏がベースになったの。それで私がたまに見にいくわけ。それで兼松さんが、あの子誰?とか言って、彼女も歌ってるみたいよみたいな話で、私がコーラスに入った。(当時)私はJOYって3人組のコーラスグループをやってたんだけど、井田リエさんはオークションの前に、JOYのケイちゃん(飯盛桂子)とユキちゃん(小沢由紀子)と昔いっしょにやってたの。それがビートフォーク(安田明とビートフォーク)ってグループ。それが解散して、井田リエさんはダンナの米倉さんとオークションを作った。それで井田さんが「コーラスはJOYの人がいい」って。でも、私のことは知らないんだよ、井田さんは。それで、私がJOYを辞めて、(森崎)ベラが入ったの。
──それで、井田リエさんがデビューするわけですね。
ペニー:そうそう。42丁目バンドでしょ。オークションからスカウトされてデビューしたのは、米倉と井田リエだけだったの。だから、オークションって名前は使えなかった。それで米倉さんが新しいバンドを作ったわけ。で、そのときにもコーラスを何回かやった。20歳とか21歳ぐらいのときだったかなぁ。それでデビューしましょうって。いちばん最初にデモを作ったのが「ドア越しのGood Song」と「My Guy」。
──デビューシングルになったやつですね。その前に、実質的なレコードデビューになったEcstacy E.Z.がありますよね。
ペニー:小林克也さんのDJが入ったディスコの企画盤ね(ペニーはPENNY KAY名義で参加)。米倉さん(レコードのクレジットは井田良弘)とJOYのケイちゃんね。E.Z.はオークションとは関係ないんだけど。
■日本語がわからなくて、MCの台本があった
──それで、ソロデビューが決まるわけですね。
ペニー:「ドア越しのGood Song」と「My Guy」をコロムビアにもっていって、すぐOKが出て。私たちは「My Guy」をシングルにしたかったの。だけどコロムビアの人たちは「ドア越しのGood Song」がいいと。兼松さんも「My Guy」の方が私たちのグルーヴだよねって言ってたんだけど。でも、売れなかったらさ、コロムビアのせいにできるから(笑)、今回はじゃあ言うことを聞きましょうってことで。それでマイラが「My Guy」でデビューしたの。
──デビューアルバムの『JUST CALL ME PENNY』(1981年)には、24丁目バンドが参加してますね。
ペニー:コロンビアの人たちが声かけたみたい。24丁目バンドがライブで東京に来てたのかな。じゃあ、ペニーは英語喋れるし、24丁目バンドに2曲ぐらいやってもらおうって。たまたま英語で書いてあった「Instant Poraloid」と「Rainy Driver」だけ録ってなかったの。それを24丁目バンドでやってもらいましょうってことで。
──もともと計画されてたわけじゃないんですね。
ペニー:よくOKしてもらったなって(笑)。私が洋楽扱いだったからかな。だから、ジャケットも最初はアメリカンっていう感じでやったんだけど、リリースされた後なのに、お偉いさんが、新人にしては太々しいって(笑)。それでジャケットをもうちょっと日本人にウケるようにって、いかにもテニスでもやるような、真っ白い髪の毛もふわふわってしたようなジャケットに変わったの(註:デビューアルバムにはジャケットが2種類ある)。アイドルとして出したかったのかな?。
──この当時にソウルっぽさを表に出してた人って、そんなにいなかったですよね。
ペニー:いなかったですね。そうなの。早すぎたってよく言われる。だから、音楽やってる人とかにウケたみたい。玄人ウケっていうか。私自身も日本語がわからなかったので、自分をアピールすることも最初のうちはできなかったし。
──デビューした頃になっても、まだ日本語ダメだったんですか。
ペニー:ぜんぜん。ライブでもお客さんがMC間違えるのを聞きに来るくらいで。それで1年間台本があったの(笑)。有名な作詞家の康珍化に書いてもらってさ、「SEXY ROBOT」の歌詞は全部康さんでしょ。あの頃は貧乏事務所だったから、康さんがね、自分のポケットマネー出してスタイリストもつけてくれて、ヘアメイクもつけて、台本も書いてくれたの。でもその通りにできないの(笑)。
■いままでディスコでやってきたアイデアが全部出たって言う感じ
──そして、次の『Heart Full Of L.A.Mind』(1982年)がちょっとポップスになっちゃうんですね。
ペニー:そう。だから、1stをダメって言ったスタッフの人たちが、もうちょっとこういうのやりましょうみたいな。「サボテンの花」が入ってるでしょ。兼松さんがシンコーで甲斐バンドとチューリップの担当だったんですよ。だから財津和夫さんとは私も何度か会ったりしてて、それで兼松さんが財津さんの曲を1曲入れたいってことで、1曲書いてもらったの。それが「シンフォニー」。財津さんも聖子ちゃんに書いたりして忙しい時で。だからこれもすごいかわいい曲でしょ。
──そのあとが『NEXT DOOR』(1983年)ですね。
ペニー:これもほんとは「GIRL NEXT DOOR」だったの。実は前のアルバムがそんなに話題にならなかったみたいで、やっぱり自分たちの路線に戻しましょってことで。ここから少しずつ話題になっていったの。「Our Lovely Days」が大きかったかもしれない。
──バート・バカラックが書いてる曲ですね。
ペニー:そう。私もよくわからないんだけど、コロンビアから日立のCMが決まったから、曲はまだ決まってないけども、って。英語の曲だからってのもあったみたい。歌詞を書かせてほしいなって思ったんだけど、それは日本に住んでる別の方が書いたみたい。
──ここからアッパーなソウル~ディスコ路線が始まるんですね。
ペニー:なんで「SEXY ROBOT」になったのか、自分でもよく覚えてないんだけど、あの頃、米倉さんが曲を書いてるから、いままでディスコの時代にやってきたアイデアが全部出てきたっていう感じ。コーラスも今まではEVEだったんだけど、同じ沖縄だから仲良くしてきたんだけど、今回からは黒人を使おうって。それは康さんのアイデアでもあったの。
──『SEXY ROBOT』(1983年)のジャケットのモデルになったジェームス(ノーウッド:翌84年にChocolate Lipsのベーシストとしてデビュー)さんは、どういう繋がりだったんですか?
ペニー:ジェームスは背が高くてカッコいいから、モデルとして呼んだんだよね。「Let's Talk In Bed」では歌も歌ってる。ここから黒人のフレディ(ヤング)とヴァレリー(ウォーカー)がコーラスで入って…そうだ、ジェームスは彼らのバンドでベース弾いてたんだ。